社会の中の【仏教用語】他⑱無明(むみょう)

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仏教の教えの根幹は、自らが自信と自尊心を保ち、己を認め証明し続けることです。そして、それらを妨げる悩みや迷い、他からの圧力や謀等の煩悩の大元、これを【無明】と申します。【無明】とは、文字道理「正しい道理や自然の摂理」に暗いこと、また知ろうとしないことを指します。

 さて、現在の日本国を俯瞰的に冷静に見たならば、利得権益側の一部を除き、このままの状態が最良だなどと思う国民はいないはずです。

  ですが、実際に声をあげ、行動に移し、その異常な社会構造に対処するほどの気力や気概もなく、戦後様々な勢力の画策もあり、たとえ納得いかなくとも、漫然と受け流し容認してきた結果が、現状とするならば、その原因が現在の大人達にあることは明白です。

 仏教や神道等の既成宗教と称される団体も、明治維新以降は法律の解釈を歪めながら、規制を強化し実質的にその活動を縛って来ましたが、大きく体制に反論や抵抗もせずに過ごして来ました。

 反面、新興宗教に対する国政の態度対応は、常軌を逸したと思えるほど甘く、簡便な届け出にて簡単に認可する二重基準の如きを、繰り返し多くの宗教的事犯も起こして来ました。

 総じて現在の国政や既得権益を握る側は、国民の目など全く気にすることなく、己達の利権構造、金権政治を続けるためだけに、邁進し行動していると認識すべき時に、至っていると見るべきでしょう

 宗教家として、また寺院住職として「反乱」を煽り容認することは、ありませんが、国家の税に対する取り組み方やその収支、実際の財務的不透明さ、犯罪の助長を促すかのような施策の数々を、躊躇もなく平気で推し進める側の態度を見続けてきた大人として、どこかの時節で日本国民は、現状を肯定するのか、反旗を翻し抵抗し、道理に適った政治や社会構造を目指すかの、大きな選択を迫られることになるでしょう。

 私たち、国民全てがそれまでには、拠り所となるべきものを、何処に求めるかの選択から、逃げずに向き合う覚悟を求められるでしょう。