仏教の教えは、自然の摂理を正しく認識理解し、その道理に沿って正しく語り行い、更に次世代へ正しく伝える礎となる『覚悟』を持つことを目指します。
ただし、その道理を理解していく過程には、順序段階があり、その次第を誤ると全く異なる教えや、結果になってしまいます。 この学びの順序次第を、誤らぬように学人を導くのが祖師(そし)と呼ばれる方々です。
まずはじめに、人が物事を判断する基準を設けるために、分別(ふんべつ)を用います。これらは敢えて事象を相対的に捉え、人の理解の基礎基準を設けるものです。
たとえば善と悪、明と暗、遠と近、喜びと悲しみ、貧富や上下や左右、大人と子供、早い遅い、古い新しい、+と-等による、区別による理解です。
この分別による理解力を分別智(ふんべっち)と申します。 仏教では、まず人が理解しやすいよう、矛盾を廃して存在を相対的に解釈していきます。これが現在一般的な学習です。しかし仏教の真髄はその先にあります。一度、分別智により理解した世界を再度確認し直し、自然の摂理の中に、相対的理屈を逸脱した矛盾的な存在や事象のあることを知らしめます。
ここに至って、分別で構築した思考世界ながら、分別では理解の及ばない実世界の不可思議(ふかしぎ)を知ることとなります。
たとえば光の動きは波動なのか、または弾丸のような直線的ものなのか?実験的結果では両方の性質を合わせ持っているという、矛盾的返答が示されます。
また、太陽系の惑星は太陽を中心に周期的に巡っていると言われますが、その太陽系そのもの全体が、銀河系の外周を、マッハ645(時速79万㎞)の速さで、2億3千万年の行程周期をかけて廻っていることから、実際には地球も含めたそれぞれの惑星も、一瞬たりとも定まった所在地が存在する事がないのです。
太陽系の中のみならば、各惑星が一定周期で太陽を周回していることが正しくとも、同時に銀河系から見たならば、決して一度として同じ場所にとどまったことはない見方となります。
また、光と同様に水の性質も独特です。氷を作る際には、冷水からの方が理論上早いはずですが、極寒下の環境ではお湯からの方が、急速に作氷されるという矛盾的結果が示されます。 また、一般的に物質は固形化すれば重くなりますが、氷は水の中でも浮かびます。
同じく軽い物質ほど沸点は低いはずですが、水の沸点は100℃と高すぎます。
しかし上記の事象は、分別智からは矛盾的と認識されるでしょうが、現実でもあります。分別では計れないこの現実を、分別智を超えて認得しながら、自らの生活の指針を設けられる心の有りよう、これを無分別智(むふんべっち)と言い、仏教徒が目指す事象理解としています。
現在の社会的解釈では、仏教の内容とは正反対で、「分別がある」は良識として、「無分別」は良識がないとの意味で使用されていますが、元来は無分別智(智慧)に至るために、初期に学ぶべき智恵のことを分別智と称していたのです。
社会の中の【仏教用語】他⑭分別と無分別
社会の中の【仏教用語】他


