社会の中の【仏教用語】他⑮ 娑婆(しゃば)

社会の中の【仏教用語】他

 社会の中の【仏教用語】も、いよいよ15回目となりました。日本の宗教と言っても過言ではない、神道や仏教ほど長く存続している教えは、否応なしにその国の文化や生活、考え方や言語にまで沁み込んでいくものです。
 あるいは「藪の中」や「肩が凝る」のように、それまでなかった著名な小説家の記した表記が、一言語として定着する流れにも似て、初めこそ物珍しさから注目を集めたものだとしても、世代が続きながら存続し続けることにより、あたかも当然のものとして定着し、小説の中の一説であったことさえ、知らぬ者が多数を占めるに至ります。
 その小説でさえ、ある意味で仏教経典が原典であるとも、言えなくはないのです。
 当時の宮中にあって、文字に通じた者達にとっては、新しい知識や読み物は、より好奇心と興奮をもって迎えられたことは、想像に難くありません。
 仏教経典は難しい理論書と思われがちですが、実際は場面や背景を活かした人物同士の語り合いや、生活の様子、その後の生き様や世の変遷等を記した、極めて現代の小説に近い形式のものでした。
 更に経典は、その教えの広説流布も重要な目的ですから、より一層読者の興味をそそるような内容が、意図的に背景に盛り込まれました。天変地異や人ならざる者、様々な神々や日常は天空に在し、一定の者にしか姿を現さない存在等、SFあり、ファンタジーありの、まさに宗教としてではなく、興味をそそる娯楽的読み物として、受け入れられたとも解釈できるのです。
 そして、それら読者の中から、自身でもこのように大勢の心を揺さぶる物語を書きたい、と思う者達の中から現れたたのが清少納言や紫式部等、小説家のはじまりとも思われるのです。
 さて今回の仏教用語「娑婆(しゃば)」ですが、仏教発祥の地インドの当時のサンスクリット語では、「サハー」と言われた言語が、中国伝来の際に音写され「娑婆」という文字になりました。ですから漢字自体には意味はなく、元来の「サハー」の内容が重要です。
 現在この言語を訳する場合、最も適切として多く訳される言葉が「堪忍土(たんにんど)」です。いわゆる堪え忍んで生きる場所、という意味です。実に2,500年前の人類も、この世の中は楽しく、喜びに満ちている世界では無く、人間関係や国々の交流、災害等も含めた天地自然との調和等、どのような立場の者であろうとも、苦難に耐えること、自身の意見が優先されずとも忍ぶことを余儀なくされる所こそ、現在の人類が生活する社会の根源である、と解釈していたようです。
 仏教の根本的教えでもある「四諦八正道(したいはっしょうどう)」の四諦も、苦・集・滅・道(くしゅめつどう)と、苦しみの現実から説かれます。
 様々な時代を歴ても徳川家康の「人の一生は、重荷を負うて遠き道を行くがごとし」の言や、松尾芭蕉の俳句「おもしろうてやがて悲しき鵜舟哉(うぶねかな)」、夏目漱石の草枕では「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される」と述べられる等、次代を超えて人の人生は万般異なれども、そこに横たわる人生という基盤には、同様の認識が含まれているようにも感じられます。
 だからこそ、私達は殊更に自らを貶(おとし)め卑下(ひげ)したり、他の評価を基準として自らの意思を見失ったりするのではなく、規律や次代の悪癖等、制限ある世相の中に在れども、それぞれが随処に主となり得る、自負自尊心を養うべきなのです。
 当正安寺では、子弟教育の根幹は己の芯を養うことであり、これを辨道(べんどう)と申しております。
 自らの価値観や意思を曲げてまで、世間や他国の敵対勢力にまで迎合したりすることを、平和主義等の言葉で押し込め是認させることを、教育または勉強と称することには理解しかねる立場です。
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