第十二段 【本文】
身心に、法いまだ參飽せざるには、法すでにたれりとおぼゆ。
法もし身心に充足すれば、ひとかたは、たらずとおぼゆるなり。
たとへば、船にのりて山なき海中にいでて四方をみるに、ただまろにのみみゆ、さらにことなる相、みゆることなし。
しかあれど、この大海、まろなるにあらず、方なるにあらず、のこれる海徳、つくすべからざるなり。
宮殿のごとし、瓔珞のごとし。
ただ、わがまなこのおよぶところ、しばらくまろにみゆるのみなり。
かれがごとく、萬法もまたしかあり。
塵中・格外、おほく様子を帶せりといへども、參學眼力のおよぶばかりを、見取・會取するなり。
萬法の家風をきかんには、方・圓とみゆるよりほかに、のこりの海徳・山徳おほくきはまりなく、よもの世界あることをしるべし。
かたはらのみかくのごとくあるにあらず、直下も一滴もしかある、としるべし。
【語注】
・参飽...修行に徹底して、悟りの境地に安住すること。さとりが身につくこと。十分に食事をして満ちたりたことにたとえていう。罷参・飽参ともいう。〈『正法眼蔵』仏性、現成公案 大 八二巻二四中〉
・相...... ・海徳...①海としてのあり方。〈『正法眼蔵』現成公案 大 八三巻二四中〉 ②海の八種、または十種の美徳。〈『涅槃経』三七巻〉他
・瓔珞...①インドの装身具。もと珠玉や貴金属を糸で編んで、頭・首・胸に飾る装身具。貴人が用いた。 ②仏教では仏や菩薩の身体を飾ることになった。また仏殿内で、珠玉と花型の金属を編み合わせて垂らしたもの。尊像や天蓋の装飾や仏前の荘厳に用いる。飾り。珠玉の飾り。首飾り。頭・首・胸などにかける珠玉の飾り。仏像の首飾りや、堂の飾りに用いるもの。宝を連ねたひも。
・塵中(じんちゅう)格外(かくげ) ...塵中は世間、格外は出世間の意。世間と出世間。世間的にいっても仏法の上からいっても。〈『正法眼蔵』現成公案 大 八二巻二四中〉
・帯...... ・参学...①参禅学道の略。仏道を修し究めることをいう。一人の師のもとに集まって仏道を学ぶこと。教えを学び、修行すること。〈『洞山語録』〉他 ②参学者。修行者。〈『正法眼蔵』弁道話 大 八二巻二二上〉 ③参は集まる、の意。一同集まって教えを聞くこと。〈『随聞記』五巻〉
・参学の眼目 ...仏道修行の大切な目のつけどころ。〈『正法眼蔵』坐禅箴 大 八二巻一一八上〉
・参学眼(さんがくげん) ...仏道を学ぶについての見通し。仏教を学ぶ上の見識。〈『正法眼蔵』洗浄、山水経 大 八二巻三〇中、六四上〉
・参学の正眼 ...仏法を参学する人の正しい見方。〈『正法眼蔵』行持 大 八二巻一三九中〉 ・眼......①視覚機官。五根・六根の一つ。眼識のよりどころとなる 〈『倶舎論』一巻四オ、六オ〉他 ②視覚作用。視覚機官。見るはたらき。〈『中論』三・九〉他 ③肝要な点。解釈例:物の肝要なこと。〈『無門鈔』上一四〉
・力......①ちから。 ②能力。〈『法華経』一巻 大 九巻九中〉 ③すぐれたはたらきをもたらすはたらき。〈『維摩経』大 一四 巻五三八中〉 ④十八不共法の第一。十力のこと。十の智慧の力。〈『法華経』 一巻 大 九巻五下〉他 ⑤暴力。⑥勢力。威力。 ⑦神通威力。神秘的な力。〈『大悲空智経』序品 大 一八巻五八七下〉 ⑧(五種類の)力。五種類の根に対応する。〈『阿弥陀経』大 一二巻三四七上〉 ⑨「由...力」複合詞の最後について「...力によって」「...のはたらきによって」の意味となる。解釈例:(十如是の一)ちから。〈『唯心房集』八二〉
・家風...宗風・門風に同じ。 ①禅林における行為の規範。清規。禅宗で教えを示す場合、おのおのがとる独自のしかた、ないし指導の方法をいう。〈『景徳伝燈録』〉 ②その宗だけが用いる伝統的な教えの説き方、指導のしかた。「曹洞の家風」〈『宗門十規論』〉
・直下...そのまま。直ちに。じきに。すぐに。〈『伝心法要』〉他 解釈例:すぐさまそこといふ義なり。〈『私記』一ノ二一九〉
・一滴水 ...仏法・宗旨の喩え。〈『景徳伝燈録』二〇巻 大 五一巻三六二 下〉
・一......①数の単位の第一。〈『中論』〉他 ②或る。 ③一つには。あるいは。「謂之一」(これを「一つには」という のである。)〈『上宮維摩疏』上 大 五六巻二〇上・中〉 ④一体。一種類。一所。 ⑤もっぱら。専一。〈『四教儀註』中本二六〉 ⑥定まっていること。決定。決定的である。畢竟。〈『五教章』 上 二ノ二四オ〉 ⑦ひとたび。「一入二空観一」〈『上宮維摩疏』上 大 五六巻二 一中〉 ⑧ジュリアンは次のように説明する。(一)皆。すべて。(二)或。あるいは。(三)助詞として用いられ、意味がない。
・滴......①したたる。ひと所に集まったしずくが垂れ落ちる。 ②したたり。ひと所に集まって、ぽとりと落ちるしずく。「水 滴」「点滴」 ③しずくを数えることば。[学研 漢字源 改定第五版] 現代語訳 (仏道修行者の)身と心に、法が十分ゆきわたらない間は、法はもうこれで十分だと思われる。法がもし身と心に十分足りてくると、一方で足りないところがあると思われるものである。具体的なことで言ってみれば、(大)船に乗って、陸地も見えない海中に出て四方を見ると、海はただ(水平線だけ)円(まる)く見えて、他に別の海の相(すがた)は見られない。そうではあるが、この大海の(の相)は円いのでもない。方(しかく)いのでもない、そのほかの、海が海としてある功徳はあげつくすことができないのである。龍魚は水を宮殿と見、天人は水を瓔珞(たまかざり)と見る(人間は水と見ているが、餓鬼には膿(うみしる)血(ち)と見える)ようなものである。ただ(それぞれ)自分の眼(力)の及ぶ範囲で、とりあえず(海は)円いと見えるだけなのである。それと同じように、(自分の外にあると思っている)万法(万物)もまたその通りである。塵中(世間のこと)も格外(仏法の上のこと)も、それぞれいろいろな様子(ありかた)があるのであるが、参学して開けてくる眼力の及ぶ範囲だけを、見たり会得したりするのである。(自己の外にあると思っている)万法の家風(ありかた)を(その真実の通りに)受けとるには、方(しかく)い、円(まる)いと見える形ののほかに、それにも余る海の徳(ありかた)、山の徳(ありかた)が多くあってきわまるところがなく、四方に広がる世界のあることを知らなければならない。かたわら(自分の周囲、外側)だけがこのようにあるのではなく、直下(自分の足もと、自分自身)も、一滴の水も、そのようにあるのだと知りなさい。 本文の出典元
・一水四見の譬え。魚は水を宮殿と見、天人は水を瓔珞と見る。「謂はゆる餓鬼に於ては、自業の変異、増上力の故に、見る所の江河は皆悉く膿血等充満する処となり、魚等の傍生は即ち舎宅遊従の道路と見、天は種々の宝の荘厳せる地と見、人は是の処清冷の水ありて、波浪の湍洄(たんかい)せるを見、若し虚空無辺処定に入るものは、即ち是の処に於て唯だ虚空のみを見る。(『唐訳摂大乗論釈』四)
・塵中格外:世間と出世間と。世間的に見ても、仏法から見ても。「格外提持」(『圜悟録』十五)
・直下:自分の足もと。自己そのもの。 直下全真、更に他物に非ず。(『圜悟録』四) 直下現成、分明に薦取すべし。(同六)
【自主的解釈】
この段は第九段と同様、自己と悟りの関係を示すと同時に、さらに自己に映り込む悟りの兼ね合いに要人すべく親切を示した段とも言えよう。
『啓迪』では、「これは前の「人、はじめて法をもとむるとき、はるかに法の邊際を離却せり」に照応する。あそこの再釈のようなものだ。」と記している。 参飽は語注のごとく、腹一杯のことであるから、自己に萬法が行き渡らぬ時ほどもう充分、これ以上は入らないと思い込み、萬法が自己に充分巡り切る際には、まだまだこの程度のはずがない、と思うとしている。
「ひとかた」の解釈による微妙なニュアンスの変化はあるが、そもそもがもう一方と、一人の尊称の意の両面があるので、「いまだ参飽せざる」に対してのもう一方、あるいはひとかどの人物とする解釈でも意は同じであろう。
修行者の心構えのみを端的に示せば、学人にも理解し易いところを道元禅師は、修と証を合い見せながら事実から説いているのか、事象を説いているのかを曖昧とするため、かえって混同させてしまうのである。
ただし私個人としては、この曖昧さと学人に混同させることは、道元禅師ご自身のまさに意図するところであると考えてもいる。このことについては後に再度述べてみたい。
ともあれ、平たく解すれば、修行が行き届いていない者にかぎって、もう充分にやったなどと思い込み、真摯に修行にのぞむ者ほど、その先へと更に打ち込むものである、という内容に過ぎない。
ここに二物対峙の様相が見られるが、実には一法究盡が相を代えた萬象萬物中、特に対比する二物を提示し、その表出のしかた、現成を学人に知らしめたいとの深慮も含まれていると感じる。
こういうところの解釈では、やはり『啓迪』は絶妙である。「究竟に至るとかえって不可得になる、悟りも何もなくなる、ひとかたどころではない。」と記しさらに、不可得、解脱、無一物、身心脱落、一方を証すれば一方はくらし等をも同意として、「これ不足だらけじゃ」と示される。ここまで解釈を深めると、後の文言は随分と理解し易くなる。
一法究盡たればこそ萬象あらわるで、同じく人が海を見たとしても、その境涯によって、円とも方とも見える。ましてや人ならざるものなれば、同じく海を見たとて、大御殿とも宝玉の類いにも見えることもあろう。このように萬象に代わる相こそ、一法究盡たる海徳に他ならない。
世間である、出世間である等と別物のように思っていても、それぞれにまた様々な境涯があり、またそれ以外の世界もある。 しかし我々は、自身の覚知できる範囲の中だけを学び会得出来ること、その他に廣く多くの境涯があることを知らねばならない。
何も遠方の、あるいは身近の菓子や茶の味覚だけに限らず、その足下の一滴の水にさえ様々な境涯が現成しているはずである。 この段の解釈は、第九段との関わりから述べはじめたが、ここに至ると前段である第十一段の水と月の喩えにもつながりを感じる。
第十一段では水の大小の変化とそこに映る月の事象を客観的に捉えた見知を、この第十二段では、自己と水との対峙する際の見知や境涯の相違を示しつつ、いよいよ対象を大なる海から小なる一滴に変じて、学人に前段で説かれてきた萬法のあらわれの確認を求めているようにも思える。
『正法眼蔵』「現成公案」巻の考察⑩ 12段目
仏の教え