講座(1) お釈迦様と仏教 ⑦「四諦」(したい)

仏の教え

 諦とは、明らかな真理(ことわり)を意味する文字で、真理即ち法とは元来、言説では言い尽くせない言語道断(ごんごどうだん)に位置するものですが、その法をあえて人々の機根(きこん)、理解能力に合わせて説かれた教えであるから、言べんが付せられているのです。

 苦諦(くたい)とは、この世界が本来悩み苦しみを背負っている真理(ことわり)を意味し、どんなに嬉しく楽しい充実した時間を過ごせたとしても、必ずそれらとの別離の時が待っているという現実を示す教えでもあります。

 集諦(じったい)とは、仏の教えの根本となるもので、この苦諦である世界の現実が人間の思慮、思惑をはるかに超えた様々な要因(因)と、それらを補助的に集め結びつけている(縁)えにしにより結果として一時的に存在している(果)という道理のことで、私達はその深意をしらずとも、これらの道理を通常、因果(いんが)もしくは因縁(いんねん)と申しております。

 滅諦(めったい)とは、集諦が現実の世界の姿であるならば、その集合体もいずれ分解されるという真理、ことわりのことです。原因となる様々な因子(いんし)と、それを何らかの形で支えている縁(えにし)の力の一角でも弱まれば、現実世界も必ず変化するということであり、更に申せばこの道理によって、一瞬一刻を待たずして常にこの世は変化し続けているということでもあります。また極端な説ではありますが、集諦の要素を詳らかにできるならば、その要素を分解、滅したり、生成し直したりして、自我認識下の世界を変化させることも出来るとする解釈を導いて、映像や文学に取り入れたりする小説家、映画監督もおられるようです。

 道諦(どうたい)とは、突然集諦、滅諦の現実を突きつけられ、うろたえることのないよう、現実の集諦でありまた、滅諦でもある真実を直視しながらも、前向きさと直向きさを保って自らを見失わずに生活できる道、方法があるという道理(ことわり)のことです。そのために仏教では特に、憶測や希望的観測を離れて、現実を現実として観ることのできる、智慧の眼を養うことを重要視するのです。
雲版(うんぱん)禅宗寺院の鳴らしもの。
法堂の殿鐘(でんしょう)。
入室問法時の独参鐘(どくさんしょう)。