第六段
本文
諸佛のまさしく諸佛なるときは、自己は諸佛なりと覺知することをもちゐず。しかあれども證仏なり、佛を證しもてゆく。
語注
・覚知...①さとる。
②完全に知ること。
・証仏...仏の境地をさとること。
・仏......①ブッダの和名。→ブッダ
②俗に死者、またはその霊を「ほとけ」とよぶのは、仏教の信仰では、一切衆生は、みな仏性をもっていて、死者はすべていのちの根源である無量なるいのちとしての仏に帰すると考えるからである。
・証......①さとること。さとり。明らかにする。自ら明らかに知って
疑いのないこと。証悟。証理。無上の真理を身をもって実現すること。証(あか)すこと。
②結果を証する。...に到達する。...を実現する。証得する。体得する。達すること。体験する。一つになる。
③証する人。証人。「作証」
④知覚すること。
証明する。「借証」
仏教であるということを証明するよりどころ。教と理と
二つを立てる。
⑦証拠。典拠。
⑧証量の略。直接知覚。
現代語訳〈緑本〉
(自己の諸法を修行によって仏にしている)諸仏が、まぎれもなく諸仏であるときは、自己は諸仏であると覚知することを必要としない。そうではあるが、証仏であり、仏であることを引き続き実証してゆくのである。
自主的解釈
「諸仏のまさしく諸仏なるとき」とは、諸仏が「諸仏でない」時があるということだろうか。そもそも、道元禅師の修行観において、「悟りは修行の終着点ではない」という観念があると思われる。
つまり、逆説的に言うならば、自分は諸仏だ、などと主客能所が対峙することなく、自然裏に修行をし続けられていることをもって、諸仏と称することを示している。
また、「證上の修」または「悟上得悟」を示される道元禅師には、その修證観に沿った独特の言い回し、または語意変換が必要になっているようにも思える。
「しかあれども證仏なり、佛を證しもてゆく。」
この「しかあれども」はまさに順説なのか、逆説なのか、微妙なニュアンスを表現される。緑本では逆説的に訳しているが、どうであろうか。
私はこの「しかあれども」の中に「しかし」、「ともあれ」、「であるけれども」等の意を含んでいると感じる。
でなければ仮に主・客を立たせてまた、その主客を跳出せしめ、更に跳出せしめた上からの主・客を示し、最終的にはそれぞれを不一不異としながら、初後の別もなしとする相互関係を表現すべき接続語を新たに作らねばならない。
言説の定義が、そもそも能所分別を成り立ちとするならば、そこを跳出したところを、万人に共通認識せしめる名詞が無いことも当然であろう。
さとりの境涯は両辺を跳出して言語道断といえども、やはり「證仏」は必要であって、現在進行形での佛の證明を行じる己がただ在るを示しているのであろう。
『啓迪』ではこれを評して「修証と証仏の親切」と示される。すなわち道元禅師が証仏と修証の妙なる所を更に違えぬため、親切にも示される箇所とするのである。
つまり諸仏が諸仏になりきる、自己が諸仏になり切る、これを証仏の姿とするのであるが、その証仏に滞ることもよしとはしない。
そこでまた、修証の親切となるのであるが、証仏以前の修証と証仏以後の修証とがまた、不一不異の修証であるから、幾重にも説き示すのであろう。
さて『啓迪』は、ここの解釈を総括して「一切空と抜ければ執着がない、ゆえに今時に滞らぬ。しかるに空見にもおらぬ。やはり今日は今日で、日常の行履に着実な一歩を踏み出すゆえ、向上の理辺にも滞らぬ、高下の事辺にも滞累せぬ。これが中道である。兼中到の一位である。ここは抑えて修行の実帰を知るがよい。」 と記している。
ここでいう「一切空」こそは、証仏のところ、主客や理事を跳出したところであろう。理事を跳出した証仏の位に至ってなお理事がるも、着実な一歩を踏み出すゆえ、その理事にも滞らぬとし、このことをもって「中道」とし、「兼中到の一位」としている。
当然この一位は、おそらく唯一無礙の一位、オンリーの一位であり、その他二位、三位があるナンバーの一位ではなかろう。
「中道」はまさに八宗の祖、龍樹菩薩の『中論』を基として、中観派なる学問集団を会せしめ、後には天台智者大師智顗により、法系共々その教えも直結せしめ、天台教学の中心に据えられる「教家」の代表ともいえるものである。
「兼中到」は曹洞宗門においては、洞山良价またはその弟子曹山本寂が示し記した禅の境涯を、五種に分類した一つである。
洞山五位とも称され「正中偏」、「偏中正」、「正中来」、「兼中至(偏中至)」、「兼中到」の五種に分類されている。
極めて単純に示せば正はさとり、偏は迷い、「正中来」を証仏の位、すなわち如去とし、「兼中至」を如来の位、さらに「兼中到」をして証上の修の極みともいえる位として解釈できよう。
こちらは、あきらかに禅家の境涯を指し示し、また時にはその境涯の読み解き方として、公案の解釈にも用いられる「祖道」の代名詞でもある。
おそらく西有禅師は、道元禅師の修証観の祖道一辺倒のみにあらず、様々な教家の教相判釈をも基調としながら、禅の何たるかを示そうとしていることを、知らしめようとしたのではないか。
第七段
本文
身心を擧して色を見取し、身心を擧して聲を聴取するに、したしく會取すれども、かがみにかげをやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくにあらず。一方を證するときは一方はくらし。
語注
・身心...肉体と精神。五蘊にあてはめると、身は色蘊で、心は受・想・行・識の四蘊である。
解釈例:五蘊の総名なり。〈『普勧坐禅儀』一〇〉
・挙(こ)......①ヴァイシェーシカ哲学で、上方に向かう運動をいう。
②努力をなし、またははたらきをなす心の状態。
③掉挙心のこと。→掉挙
④自ら心の高ぶること。
⑤挙示の意。禅宗で公案などをとりあげて衆に示すこと。また課題として与えること。
⑥挙揚の意。禅僧が自己の禅風を高めること。
行う。行動する。
⑧ことごとく。全体的に。
・色......原語のSru(-)pa(=Tgzugs)は形づくるという意味の動詞からつくられたことばで、形あるものの意味がある。「色とは形づくられたものなり」と解せられる。また、壊すという動詞からつくられたともいい、壊するもの、変化するもの、という意味とがある。要するに形を有し、生成し、変化する物質現象をさすことばである。伝統的には変壊(へんね)・質礙(ぜつげ)の意があると解せられる。
①いろ。いろどり。
②いろと形。眼の対象。眼で見られるもの。いろ・形をもったすべての物質的存在。視覚機官の対象であるから、単にいろではなく、いろと形とを含む。視覚の対象。五境の一つ。色塵ともいう。色界・色処に同じ。アビダルマの教学では、いろを顕色、形を形色(ぎょうしき)とよぶ。眼の対象であるときには、南都では古来「いろ」とよむ。(色心の色(しき)と区別していう。)たとえば、玄奘の唯識比量における極成色(ごくじょうのいろ)。〈『正法眼蔵』現成公案 大 八二巻二三下〉他
③形。ものの形。すがた。
④物質。物質一般。物質的存在。形質をもち、生成変化する物質的現象。物。この世を構成する物。色蘊に同じ。→色蘊
⑤物質(必ずしも五蘊の一つではない)。心に対していう。
⑥五位の一つのときは色法。五蘊の一つのときは色蘊。「色とは五根と五境および無表である」〈『倶舎論』一巻五ウ〉
⑦形あるもの。
⑧肉体。形骸。
⑨容色。
⑩衆生の心に映現した仏身に現れている種々の形相。
⑪色界のこと。清らかの物質からなっている世界。
⑫ヴァイシェーシカ哲学において、性質(徳)の一つ。
⑬執着。
⑭色欲のこと。
⑮おもむき。ようす。情態。
・見取(けんじゅ)...①低俗な誤った見解などに執着して、それらをすぐれた真実の見解であると考えること。哲学的見解を立てる執着。見取見の略。
②有身見・辺執見・邪見・見取の四見のうちの一つ。
・見取見①誤った見解を正しいと執着すること。愚劣な知見をすばらしい考えであると執する謬見。互いに自己の所執を最もすぐれていると考え、他の所執を非とする見解。
②五見の一つ。身見と辺見と邪見とを起こし、これを妄執して、これを真実であると考える誤った見解。身見と辺見と邪見の三つを正しいと考える見解。
・声(しょう)......①音声の意。音。音声の世界。聴覚の対象となるもの。六境の一つ。耳で聞かれるもの。必ずしも人間の声ばかりではない。〈『正法眼蔵』現成公案 大 八二巻二三下〉他
②語。ことば。→言声(ごんしょう)
③ことばの形而上学。声論外道。声顕論者と声生論者とがある。
④子音と母音の合したシラブル。
⑤ヴァイシェーシカ哲学で想定する性質。徳の第二十四。音声。
・聴取...聞き入れること。
・会取...また会得ともいう。了解すること。よく事理を理解すること。
・影(よう)......①かげ。陰影。『倶舎論』界品に、「光明を障えて、生じて、中に於て、余の色を見るべきを影と名く」とある。
②光影。かげ。外観。六つの外的世界が内的世界の現われにすぎないことを光影にたとえる。
③表象内容。
④すがた。
現代語訳〈緑本〉
身心全体で色(眼で見る対象)を見取(み)、身心全体で声(耳で聞く対象)を聴取(き)くのであるが、そのとき、(見、聞くはたらきと、見られ、聞かれる内容とはまったく一体で、それなればこそ)身に親しく会取(うけと)っているのであるが、それは鏡があって、そこに影(姿、かたち)をうつすような関係ではなく、水に月がうつるというような関係ではない。
見る、聞くという一方があれば、見られるもの、聞かれるものに言窮する必要は無く、見られるもの、聞かれるものを言うときは、見、聞く主体のことまでは、言うに及ばずである。
自主的解釈
ここは先ほど同様、いわゆるさとりの境涯のところ、証上のところを示すのであるが、先は仮に主・客を立て用いて示された。
今回は能・所を用いて示されるのであり、その境涯を示したものといえよう。
さて、ここまで解釈を進め改めて「現成公案」の語について、思慮してみると「現成している公案」と単純化した解釈も、あながち誤りとも言えないように感じる。
『啓迪』でさえ洞山五位を用いて解釈する御巻でもあり『正法眼蔵』全巻の中においても、古則公案を解釈している部分が散見される。
そもそも公案を、挙則公案と捉えるならば、それは公案だけでなく、その内容に含まれた祖師方の闊達とした姿や、師弟の状況や世界観そのものとも言えよう。
であるならば、「現成公案」は「諸法実相」の別名とする解釈も、可能性として無いとは言い切れない。
さて内容的には前段の、主・客を能・所に置き換えて解釈すれば通じるはずである。ただし、この段では前段と違い証上の修、その修の極みともいうべき、兼中到の部分を省いている。
このような著述のあり様が、否応なく本来の道元禅師の親切心を見出せぬまま、読者に理解不能な印象のみを、増幅させる遠因ともなっている。
ここまでの文脈の流れから、この段も前段同様に証上の修を更に進んだ、極みの境涯であることは間違いない。
ただし主客を能所に代えたり、その譬えに祖師方の大悟状景を挟んだりしながら、証上の修については、祖師方の大悟の機縁とする能所を重ねて説くことになるため、敢えて略したと思われるが、読者からは一瞬、全く別の内容を差し出されたように映るであろう。
一つ一つを丁寧にうめていくならば、能生と所生の別は勿論、眼と耳を能生とし、色と聲が所生となる。
そして眼根と色境には、霊雲志勤の「霊雲桃華」の古則、耳根と聲境には香厳智閑の「香厳撃竹」の古則を絡めるのである。
そうしてみると、案外内容は端的となり、「全身心で見て、全身心で聞いて、それで悟りを得る訳だが、それは彼我があるような観点ではない。
証仏時には有と見るならば一切有、無と見るならば一切無なのだ。」との解釈でも充分に思えてくる。
講座(5)『正法眼蔵』「現成公案」の巻の考察⑥
仏の教え