講座(3)『摩訶般若波羅密多心経』の教え④

仏の教え

 〇色即是空。空即是色。受想行識。亦復如是。舎利子。(色すなわち是れ空。空すなわち是れ色。受・想・行・識もまたまたかくの如し。舎利子よ。)
 【用語解説】
  色不異空     =表=空(くう)
  空不異色     =裏=仮(げ)
  色即是空 空即是色=全=中(ちゅう)
 
 【本文解説】
 本文もここに至ると随分と教学的になります。教えの真髄とするところを、限りある文言の中で、説き示そうとすけば、直に核心にせまることも方便と言えましょう。
 さて、仏教にもそれぞれ宗派の別があることはご存知でしょうが、これはお釈迦様が亡くなられた後、その説かれた四十五年間の教えの内容と、説かれた時期を精査して経典の元を作られたお弟子様方の最初の集まり、第一結集(だいいちけつじゅう)からはじまります。
 この時代の経典編纂はまさに、聞き書き的内容とも言える文体で所謂、現代の名言集のような内容であったと思われます。しかしこの時すでに、お釈迦様が長年にわたって各地を巡り、教えを示されたことにより、その時期によって内容に微妙な変化や、説かれた方法等の違いが明らかになってまいりました。
 その後、この教えの重要さを説かれた時期によって区分するという考え方が出てきました。また自身はこのように教えを受けた、その時の様子はかくの如くであった、というような経典が順々と作成されましたが、それぞれがおよそ、お釈迦様在世のどの時期に説かれたかを、推察できるよう、一応の形式としていたようにも思われます。この時期と説かれた教えを組み合わせた教学的区分けを「教相判釈」(きょうそうはんしゃく)、略して「教判」(きょうばん)といい、時代とともに小さな変遷もありましたが、一応の完成形をみたのは中国天台教学の創始者でもあり、随の煬帝から天台智者大師の贈り名も受けた智顗(ちぎ)であろうと思われます。
 この時に智者大師智顗の示されたのが、五時八教の教判(ごじはっきょうのきょうばん)であり、お釈迦様四十五年間の説教を五つの区分、すなわち①華厳時(けごんじ)・②阿含時(あごんじ)・③方等時(ほうとうじ)・④般若時(はんにゃじ)・⑤法華涅槃時(ほっけねはんじ)に分類したもので、その後これ以上精緻な教判解釈は見られないと思われます。
 また、乳の熟成度に喩えて1乳(にゅう)・2酪酥(らくそ)・3生酥(しょうそ)・4熟酥(じゅくそ)・5醍醐(だいご)の如しとしていることから、「法華経」(ほけきょう)を重要視していたことが理解されます。八教については天台教学の部分となるので、別の機会に示したいと思います。
 このように理論的には、どの時期の教えや経典を重要とするかにより、宗派の別が生じたことも一つの理由であり、またその時に最も重要とされた経典が、その宗派の「所依の経典」(しょえのきょうてん)と定められたと考えられるのです。そして日本においては当時、比叡山延暦寺が仏教教学を学ぶ者にとっての中心地でもありましたから、自然その影響下、「法華経」を所依の経典とする宗派が多くなったとも考えられます。
 私達曹洞宗(そうとうしゅう)を含め、いわゆる禅宗と言われる宗派には、「不立文字 教外別伝」(ふりゅうもんじ きょうげべつでん)なる言葉が存するように、所依の経典はあらず、禅を中心にしながら、機に応じて経典を読み解くとしております。しかしながら決して経典や言説を軽んずるのではなく、更に深い解釈のため修行を併用する意味合いの標榜であり、道元禅師の著述からも相当な天台教学等、仏教学全般に対する素地の深さが感じられます。
さて本文ですが、古来からこの文脈には様々な方向から解釈がなされてまいりました。それらの中でも私自身はやはり、前述したことを踏まえて、教学としては天台学を用いた解釈が最も合理的であると考えます。すなわち「色不異空」とは、真理(現象の実際のすがた)を真正面からとらえた表現、「空不異色」とは、もう半面からとらえた表現とし、「色即是空 空即是色」がそのもの全体をとらえた文言とする解釈です。
 天台教学では、八宗の祖とも呼ばれる龍樹菩薩の「中論」等を基としながら、真理を空(くう)・仮名(けみょう)・中道(ちゅうどう)の三つに分類し、略して「空」(くう)・「仮」(げ)・「中」(ちゅう)の三諦(さんたい)と申しております。空を三蔵教から大乗通教にかけてとし、仏教の初期からの基本の教え、仮名(けみょう)は大乗別教にかけて、空(くう)である真理が仮名を与えられて世に存在するを表し、中道(ちゅうどう)は円教にかけて、空なればこそ仮名に、仮名だからこそ空であるを示すものとしております。
 ちなみに、ここで説かれる三蔵教、大乗通教、大乗別教、円教を「化法の四教」(けほうのしきょう)といい、さらに説法の深浅を目安とするに設けた頓教、漸教、秘密教、不定教(ふじょうきょう)の「化儀の四教」(けぎのしきょう)を加えたものを八教としているので、「空」を説く場合には、そのまま五時八教の教判を用いることにより、より具体的かつ理論的な解釈が成り立つのです。
 現代語訳的に解釈すれば、「色不異空」は、種々様々な因縁によって生じた諸々の存在には、本来固執すべき実体が無いことを示し、「空不異色」では、実体が無いからこそ、無限の可能性を秘めたる存在であることを示し、「色即是空 空即是色」にて、当たり前に思われる現実世界にこそ、仏が説かれる真理の片鱗があるとして、その理解実践のために精進を勧めていると、申せましょう。
 「受想行識。亦復如是」とは、先に五蘊の色(物質や現象)について説かれたので、それ以外の精神面に際しても同様に、永遠不変であるものはないとし、良きアイデアが浮かぶのも、良からぬ考えが首を出すのも、本来が皆「空」だからであるとし、更に、不調にて失敗してもやり直すことも、順調に見えても怠って失敗を重ねることもあるとしています。
 ここにおいても限りある文章中、わざわざ「舎利子」とお釈迦様の呼びかけの言葉が入っていることには、相当の意味を汲み取る必要を感じます。すなわち智慧第一と称される舎利弗尊者にでさえ、一朝一夕に理解するには難解な内容であることを示して、腰を据えた精進を促したものと思われるのです。
 ここで先に述べた『中論』の相当する文言を記しておきましょう。
 「種々のご縁が結びついて存在する、この世の中を実体がないから「空」(くう)といい、また実体はなくとも、そこに仮の名前を付けるので「仮名」(けみょう)といい、それらはそもそも上下、左右、善悪、是非の両辺にとらわれていないものなので「中道」(ちゅうどう)という」