平成12年、正式に正安寺住職の任を拝命してより、26回目の新盆施食合同法要を、組寺御寺院様方の随喜を賜り、正安寺総代会や仏教婦人会のご助力もあり、厳かにまた、しめやかにお勤めすることが出来ました。
本年は故人様56名の御霊の安寧を祈し、また戦没殉難殉死者並びに災害避難被災被害者から六道四生の三界全体の萬霊までを含めて、皆一同に成道し、還り来たって仏界の臺よりご冥護を下さりますよう重ねて祈らせていただきました。
現代社会は、経済を中心とした効率主義を重んじ、物事の判断基準の曖昧さを除去することが全て正しいと考え違いをさせられている面があるようです。
私達人間は励み成長もすれば、怠り堕落する生物でもあります。若い頃の考えの全てが一生涯続くはずもなく、幼少の時代に貧しかったとしても、壮年期には日本国でも有数の富豪となっている場合も、全く無いとは言い切れません。
そのような効率だとか、損得という尺度で測ろうとするならば、仏や神を祀り、また亡き故人を御霊の安寧を願い祈するという行いの意味は軽薄なものと映るのかもしれません。
しかし同時に私達人間は、否応なしに流れる時代時勢に流される人生の繰り返しの中で、不注意を起こし油断したり、大切だと大事にしてきた何かを忘れたり、自身の指針として常に携えていたはずの尺度、物差しが不正確になったり、あるいは全く別物に変わっていたことに気づけないでいる、等ということが起きるものです。
だからこそ、人生の節目節目にて仏教や神道は、耳障りであろうと、もう聞き飽きたと言われようとも、何度でも繰り返し自らを再確認する自覚を促すのです。それが人が共々に養い応じ合うこと、供養の本義でもあります。現在に生きる私達お互いの横のつながりだけでなく、今は亡き先祖と現在の私達、そして私達が支えた環境に生きる、将来の人々までも含む縦のつながり、これらを意識せずとも自然の内に調和に導く言動や道理を示し、目標とするのが仏教でもあります。
生きていたときよりも、亡くなってからの方が、親の有り難みを感じる等のお話しは、その典型かもしれません。
現在の自分が理解出来ないから、自身の得にはならないから、今の自分に必要がないから等の理由が、将来の自分に絶対に必要が無いという証明にはならない、これを真実と言うのです。
ご供養する私達側、気持ちの有り様についてご質問をされる場合があります。どのような気持ちで、故人を供養したら良いのでしょうか、というものです。
その際に私は、自身や家族の安寧を祈り願いながら、お祀りされる方もいれば、親族の怪我や病の早期平癒を願う方もいるでしょう。亡き故人の幸せを願う祀り方もあるでしょう。祀れ方に正解があるわけではありませんが、最も貴いのはお祀りしなければ・・・ではなく,「お祀りせずにはいられない」と思う祀り方です。とどんなに共感を得たとしても、それらの理由は人の思いや計らいです。
計らいや理屈を超えて、それでも祀らずにはいられない、言葉では説明し尽くせない言語の道の断えた先、そこに至って更にお祀りする方々には、縦横無尽の供養の道が重なり合っているものと思慮致します。
そこに至らずとも、至るための道が三供養、所謂①利の供養、②敬の供養、③行の供養です。
①故人の好きだった物、好物等を備える。②故人に対して畏敬の念で接し祀る。③自らの言動が、亡き故人や御先祖様方に対して恥ずかしくないものとする。
このように仏教や故人の供養、その姿の中にも日本人の風土や文化、精神性の元となった教えや心構えは伝えられているのです。ただし、これらのことを教育の場で教示することが否定されてきたのが、戦後教育であったことも事実です。
令和7年8月13日 正安寺新盆施食法要
行事


