講座(5)『正法眼蔵』「現成公案」巻の考察⑦ 8・9段目

仏の教え

第八段

本文

佛道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、萬法に證せらるるなり。萬法に證せらるるといふは、自己の身心および佗己の身心をして脱落せしむるなり。悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。

語注

・佗己...

 →佗...

 →己...おのれ。自分。「取属己」(他人の物を取って自分の物とすること。)〈『倶舎論』一六巻一三オ〉

・身......①身体。肉体。

    ②五元素から構成されている身体。

    ③執せられた身体。「無身」〈『中論』一六・三〉「無身」〈『中論』一六・六〉

    ④執着されるところの個人存在。

    ⑤アートマン。自己。自分自身。[安世高はアートマンを常に「身」と漢訳し、「我」を用いる場合は、代名詞のときのみである。]

    ⑥自分。われ。

    ⑦五蘊の一つ。行のこと。潜在的形成作用。

    ⑧この身の永続的自我。

    ⑨個人存在。生存。触覚。身体による触覚。身体の表面にあまねく触覚作用としてあるので、触覚機官を意味する。

    ⑩集まり。

    ⑪種類。部類。ある類に属するすべてのもの。「眼触身」(眼との接触とい われるすべてのもの)などと用いられる。

    ⑫一般的な名称。〈『倶舎論』五巻 大 二九巻二九上〉

・脱落...解脱に同じ。とらわれがなくなること。束縛がなくなること。

・解脱...①のがれること。解き放たれた。

    ②苦しみから解かれ、のがれ出ること。(束縛から)解放されること。煩悩や束縛を離れて精神が自由となること。迷いを離れること。迷いの世界を抜け出ること。さとり。真実をさとる。執着を去る。迷いの束縛を離れて完全な精神的自由を得ること。苦しみ悩む世界から解放された平安な状態をいう。安らぎの境地。さとり・ニルヴァーナに同じ。

    ③解脱はニルヴァーナと区別され、解脱に基づいてニルヴァーナが起こるという。〈『中阿含経』一〇巻 大 一巻四九〇下〉

    ④脱せしめること。解脱させること。

    ⑤けがれから解放されること。

    ⑥煩悩の繫縛を解いて迷いの世界をのがれること。ニルヴァーナの別名といえる。煩悩からの解放。苦しみの三界からの解放。煩悩を伏し断ずること。「名涅槃為解脱」(涅槃を名づけて解脱と為す。)〈『大般涅槃経』五〉

    ⑦通力。自在を得させる禅定。十八不共法の一つ。八解脱のこと。→八解脱

    ⑧清らかであること。

    ⑨消滅。

    ⑩我執がない。

    ⑪阿羅漢果を得ること。「不時解脱」〈『四教儀註』中下二〉

    ⑫五分法身の一つ。→法身

    ⑬求道者の第八の段階(八地)以上に現れる、仮の智慧と実の智慧(権実二智)。

    ⑭禅宗では多くさとりの意に用いる。煩悩の繫縛(支配)から脱すること。

    ⑮サーンキヤ哲学において、純粋精神を物質から解き放すと。

    ⑯牢獄を解放して罪人を許すこと。罪人が杻械枷鎖から解き放されること。

悟迹(ごしゃく)...さとりの跡かた。〈『正法眼蔵』現成公案 大 八二巻二三下〉

休歇(きゅうけつ)

    ①休も歇も、止または息の意。やめること。全くあとかたないこと。〈『正法眼蔵』現成公案 大 八二巻二三下〉他

    ②大安心のところに安住すること。諸縁を離れて休息すること。

・長長...永遠に。常に。〈『正法眼蔵』現成公案 大 八二巻二三下〉

・出......①現れ出ること。退に対する。

    ②母胎から出ること。

    ③迷いの世界から出ること。のり越えること。十六行相の一つ。→十六行相

    ④(一)「出入」は「往来」(あるものと関係をもつ)と同義。

     (二)「出入之右」は、あるものにまさる、の意。「出入之下」は、あるものに劣るの意。

現代語訳

 仏道をならう(修行する)というのは自己をならう(修行する)ことである。自己を修行するというのは、自己が(諸法ばかり、万法ばかりになって、)自己を忘れることである。

そういう自己を忘れるということは、万法から(自己が)実証されることである。万法から実証されるということは、自己の身心および他己(わたしの中にある他人)の身心が自分のものでないこと徹底させるのである。

(それが悟りであるが、その)悟りの痕迹(あとかた)は、まったく、休歇(やすみきって)いるものであり、休歇(やすみきって)いる悟りの痕迹(あとかた)を、永久にそのままにさせるのである。

本文の出典元

・休歇:三界平沈、箇の休歇を得たり。(『圜悟録』三)

自主的解釈

 第五段、第六段にて、迷悟や諸仏から観じられる様相について、述べられ、第七段では、第六段の内容を主・客からでなく、能・所の観点から、しかも古則公案も交えて補強せしめた。

道元禅師の証上の修、悟上得悟の立場から法を示す前提ならば、当然のことであったとしても、この場に於いてこの補強は、学人の立場からは突飛に過ぎ、かえって迷中模索する可能性大であろう。

さらに道元禅師は、先の段では兼中到を略したから、この段では加え説こうとでもいうように、ずんずんと重ね示すのである。

 ここでは、前段まで主客や能所を立てて示してきた修行と悟り、修証について、更に主客に還ってその真只中に在る自・他、すなわち自己と萬法との関わりを述べるのである。

 仏道を学ぶと言うときは、学ぶべき仏道と自己とが別個に存在している。その別個を外していくのがここの内容でもある。

であるから自己をならふなり、自己をわするるなり、と言うのであり、自己をわするるならば他己、自他を隔て別とする萬法もわするることとなる。

自らを解放しなければ何物も入りようがないように、自他を別とせず余物を放捨するならば、萬法に證せらるるは当然でもある。

自己を忘じ解放しきれば、一法究盡にして、自己の身心および佗己の身心をして脱落せしむるなり、とも言えよう。

さて、悟迹の休歇に関してであるが、未だ自己と萬法に主・客を立て、「入処」を目的とする学人とするならば、悟った後に休みたくなるが、その気持ちを退け続けるのである、という解釈も間違いではなかろう。

また同時に、道元禅師の示される自己と萬法に別がない「悟迹を忘ずる」ところからならば、証上とて住したならば滞り影ができる。

証上であることも忘じて、証上の修に勤しみ続けるから悟迹の影がない。

これを休歇といい、その休歇たる悟迹すなわち、証上の修に空間物()としても時間としても影は無く、重ねて長劫勤しみ続けるのみである、との解釈にもなり得る。

第九段

本文

人、はじめて法をもとむるとき、はるかに法の邊際を離却せり。法、すでにおのれに正傳するとき、すみやかに本分人なり。

語注

人(にん)

    ①人間のこと。五趣の一つ。

    ②神々(天)に対していう。

    ③四生の一つとして。→四生

    ④六道の一つ。→六道

    ⑤自己。実体としての個人。霊魂。

    ⑥サーンキヤ哲学でいうプルシャのこと。

    ⑦個人に対する執着。

    ⑧特に限定して修行者をいう。〈『臨済録』〉

    ⑨臨済のいう、「一無位の真人」のこと。〈『臨済録』〉

    ⑩真理・真如に同じ。→真如〈『臨済録』〉

・法......(一)普通はSdharmaの漢訳。法(Sdharma)は(中略)「たもつもの」、特に「人間の行為をたもつもの」が原意とされる。インド一般に、次のような意義で使われている。

     ①慣例。慣習。風習。行為の規範。

     ②なすべきこと。つとめ。義務。ことわりのみち。

     ③社会的秩序。社会制度。

     ④善。善い行為。徳。

     ⑤真理。真実。理法。普遍的意義のあることわり。Ssatyaと同一視される。

     ⑥全世界の根底。

     ⑦宗教的義務。

     ⑧真理の認識の規範、法則。

     ⑨教え。教説。

     ⑩本質。本性。属性。性質。特質。特性。構成要素。

     ⑪論理学では、述語・賓辞。

    (二)仏教外の哲学の特殊な術語としては、

     ①サーンキヤ学派では四つの徳(法・慧・離俗・自在)の一つ。美徳。

     ②ヴァイシェーシカ哲学において性質(徳)の第二十二。ダルマ。Sdharma

    (三)仏教においても、この語は上記の意味と同様、多義にわたるが、特にアビダルマ教学においては、「能持自相故名為法(S(中略) 物事のあり方の本質を把持するから法という)」と解釈され、それ自体の本性をたもって変化せず、認識や行為の軌範となるものと考えられている。それは種々の意味で用いられる。〈『倶舎論』一巻二オ〉

     ①真実の理法。真理。すべての人がいかなる所でもいかなる時にも守るべききまり。三世十方に通ずる理法。のり。まこと。法則。軌範。ことわり。ことわりのちから。

     ②正しいこと。善い行ない。

     ③理法としての縁起をさす。

     ④教え。仏の教え。仏法。

     ⑤三宝の一つ。

     ⑥具体的な戒め。学処。

     ⑦十二部経のこと。〈『般泥オン経』大 一巻一八八上〉

     ⑧本性。〈『中論』一五・八、九〉

     ⑨型。〈『維摩経』大 十四巻五四〇上〉

     ⑩意の対象。思いの内容。考え。六境の一つ。心のあらゆる思い。思考の対象となるもの一般。心の対象。心が対象としてとらえるもの。

     ⑪事物。存在。存在しているもの。もの。具体的個別的な存在。対象。もののありのままのすがた。五位七十五法とか五位百法とかでまとめられるもの。

     ⑫文字によって言い表される意味。〈『五教章』上三ノ二オ〉

     ⑬心のはたらき。〈『起信論』大 三二巻五七八上〉

     ⑭実体。(大乗の実体とは、一切の衆生が内に具えている心にほかならない。)〈『起信論』大 三二巻五七五下〉

     ⑮法身。三身のうちの法身。

     ⑯主語に対する述語。〈『正理門論』〉

     ⑰シナの因明では、義・後陳・差別・能別に相当する。〈『明大疏』国訳三二〉

     ⑱日本では密教で行なう祈祷、修法。

・辺際...きわまるところ。ほとり。きわ。〈『正法眼蔵』現成公案〉他

・離......

    ①悪い行ないを断つこと。

    ②遠ざけること。除くこと。遠離すること。除去。(煩悩などを)除去すること。

    ③(他のものの本質を)離れていること。

    ④世離とも訳される。ニルヴァーナのこと。

    ⑤のがれでること。十六行相の一つ。→十六行相

    ⑥一般に、...を離れた、...をなしに、の意として用いられる。

    ⑦すてて。〈『中論』二七・一〇〉他

    ⑧ヴァイシェーシカ哲学において性質(徳)の第九。分離。

    ⑨絶想に同じ。→絶想〈『五教章』上 三ノ二八オ〉

    ⑩離(り)する。一つのものを分割する。

・却......

    ①しりぞける、の意。たとえば、瞎却・換却など。

    ②かえって、むしろ、なお、また、逆に、などの意。

    ③動詞について意味を強めたり、単に語調を整える語として用いられる。「正位却つて偏」〈『重編曹洞五位顕訣』〉

・正伝...師から弟子へと正しく仏法を伝えていくこと。〈『正法眼蔵』仏道〉

本分人(ほんぶんのひと)...人間本来のすがたに立ちかえった人のこと。深く仏道に達して迷いのない人。立派な修行僧。さとりを身につけた人。〈『正法眼蔵』現成公案 大 八二巻二三下〉他

現代語訳

 人(誰でもいい、人)がはじめて法を求めるとき、(自己を成り立たせている法を外に求めるから)はるかに法の辺際(一番はしっこ)をも離却(はな)れている。(自己の正体である諸)法が、すでに自己のところに正しく伝わるとき、直ちに本分人(自己の本分に落ち着いた人)である。

自主的解釈

 『啓迪』では、「これは開山が法の本然からいわれるのである。法の本然からいえば自己のほかに万法なく、万法のほかに自己はない道本円通じゃ」として、自他能所の別なき本門からの御文として、「法の中におっていったい何を求むる。求むるという了見の起った時がはや道を去ること千万里じゃ。」とも示される。

上記が現成公案第九段の「はるかに法の邊際を離却せり。」の解釈であることは明白である。

法のきわさえも更に遠く離れる、というのだから、この場合は全くの見当違いをしている、との解釈が適当かとも思われる。

西有禅師は面山様や『聞解』等の解釈を、時々親切が過ぎる等と評することがあるが、いささかこの段に関しては、ご自身がそれに近くなっておられる。

道元禅師の『正法眼蔵』を解釈する場合の、宿命とでもいうべきものであろう。

強いて言うならば、この御文の解釈そのものは、『正法眼蔵』全体にわたる観察者の観点を定め釈する、という原則を忘れなければ、極端に難しくはない。

道元禅師の『正法眼蔵』そのものが本然を示そうとするのだから、ある時には本然からは主・客のないことを説き、またある時には本然の上からの主・客の失せざるを説き、更に証上の修の跡影も残さぬ菩薩の志気をも説き、常にそれら全てを網羅、表詮する表現方法を模索し試用しているために、起こる現象でもある。

俗に言う解釈泣かせの原点と見れば、理解し易いであろう。

この段は、「現成公案」も中盤に差し掛かり、観点の総括をも兼ねていると見れば、どちらからも、どこからも解釈可能と理解した方が、御文には通じる気がする。

西有禅師は親切にも、より理解を促すべく、単純化した本門からの解釈のみを示されたとおもわれる。

だが初学の学人には、その本門の真只中が見えていないのだから、そこでの観察風景を、ずんずんと述べられても違和感だけが増幅し、今現在の観点さえも覚束ない状況になりかねない。

このような節目となる段落こそ、敢えて初学の学人に対しては、解釈の幅広さを指し示す説き方が、効果的だとも思われる。

さて本門本然からではなく、迹門初心から解釈すれば、初学初心者が仏の教えを求める時には、どうしても自己と万法とを分け、現場を棄てて万法への近道を希求するので、いよいよ見当違いが起こるのである。    

自他を別とせず、しかも自他に拘らず、自己が自己をして自己を忘ずる時にこそ、作為せずとも万法と自己がいつの間にやら、融通し合っているのである。

この融通無礙なるを「正傳」といい、本然の真只中にて自己を追求するに勤しむ姿を「本分人」と言うのである。

学人に対し解釈する場合には、こちらを先とすべきであろう。その上で本然から解釈すれば御文には通じると思われる。 

ただし、『啓迪』なりの言い分も、あることも忘れてはならない。

すなわち第四段および第五段における解釈では、「さてここも一応は御文の通りに解しておいて、それから現成公案の意には背かぬというところを参究すべきである」と記して、本文の解釈も一様ではないことを示しているので、後々の本文についてまで一々、同様の指示は必要としない、と考えたかもしれない。

                
                
正安寺境内永代供養墓、前庭の掃き作務(さむ)