正安寺の什物① 【掛軸 日本画 橋本雅邦 山水水墨画】幕末~明治

正安寺什物

 橋本雅邦(がほう)は天保6年に木挽町狩野家の邸内に生まれ12歳の時には、父と同じく木挽町狩野家、狩野晴川院養信(おさのぶ)に入門する。
 これは父、橋本養邦(おさくに)が当時川越藩の御用絵師であり、木挽町狩野家当主狩野晴川院養信の高弟として同家の邸内に一家を構えていたためである。
 ただし養信はこの一月後に没したため、実際にはその後継者である勝川院雅信(しょうせんいん ただのぶ)を師としたと見てよい。
 前後には狩野芳崖も入門しており、年下で穏和な人柄の雅邦と、厳格な芳崖とではあったが、生涯の親友となり、共に「勝川院の二神足」「勝川院の竜虎」等と呼ばれた。
 その後明治維新の動乱もあり、不遇の時代がつづくがアーネスト・フェノロサの伝統絵画の復興運動が転機となり、彼の庇護を受けていた芳崖と共に新しい表現技法を模索するようになる。
 更にフェノロサ・岡倉天心の指揮下芳崖と共に東京美術学校の発足に向けて準備を進めるが、開校目前に芳崖は死去したため、東京美術学校開校に際しては、芳崖の代わりに絵画科の主任となった。
 同年に帝室技芸員制度が発足すると第一次のメンバーに選ばれ名実ともに当時の絵画界の最高位に登り詰めた。
 東京美術学校では雅邦四天王と呼ばれた下村観山、横山大観、菱田春草、西郷孤月の他、川合玉堂、橋本静水らを指導しており、その指導が近代美術に与えたた影響は多大である。