日本社会で、日常的に使用されている言葉の中に、元来仏教用語だったもの、またそれらに関係付随するものが、私達の知る知らないの知識とは別のところで、日本人的な感性や精神性、職人の技術や文化的な面に至る過程で、一つの重要なファクターとして発揮されていることを、紹介してまいりました。
億劫(おっくう)もその一つで、特に日本で数を数える際の単位、一、十、百、千、万、億、兆、京、垓、杼、穣、溝、澗、正、載、極、恒河沙、阿僧祇、那由他、不可思議、無量大数のそれぞれでさえ、後半に至れば全て仏教用語であることが感じ取れます。
恒河沙(ごうがしゃ)とは、恒河すなわち(ガンジス川)のほとりにある全ての沙(砂粒)の意として、阿僧祇は、仏教の論蔵にて事象を事細かに分類した『倶舎論(くしゃろん)』中にて、成仏するための心構えを示すに「三阿僧祇劫(さんあそうぎこう)」と述べられ、妙法蓮華経の如来寿量品には、如来の寿命に際し「五百四十万億那由他劫」と記され、不可思議は仏教用語の中でも、人の常識では計り知れず言葉で説明しきれない言語道断のところ、無料大数は仏教用語にあった「無量数」の語に大を加えて、その天文学的長さを強調して元の数学者、朱世傑が『算学啓蒙』等にて極以上の数を示すに仏教語を用いたことからはじまり、日本では凡そ三百年後、吉田光由執筆による『塵劫記(じんこうき)』によって紹介された単位でもある。
ともあれ極以上の単位は、全て人の意識下では理解が及ばない尺度として、文字自体が表現されている。そして、これらの知識では及ばざる尺度、長さを総じて仏教では劫(こう)と述べている。
このことから「億劫」は、仏教修行者の気のはやるのを戒め、成仏のためには気の遠くなるような時間も勤め切る覚悟を必要とする、無限とも思えるほどの時間という内容となります。
その途方もない時間、自分なりの努力をつくしても、関わった時間に対しての成果が見合わない、また自身の思っていた仕事内容や成果と違う等、面倒くさくなったりやり甲斐が失われつつある心情を表す言葉の意味に、変容したとおもわれます。