令和8年8月13日10時半厳修 正安寺新盆施食法要

行事

 本年は、正安寺住職を拝命してより27回目の新盆施食法要となりました。組寺のご住職様方の随喜は勿論のこと、総代会や仏教婦人会から役員のご助力もあり、無事故人43名様の御霊の安寧をお祈りさせていただきました。

 「感応道交(かんのうどうきょう)」という教えがあります。日常生活に置き換えるならば「気づき」とも言えるかもしれません。今までの自分の思慮だけでは、到底至れなかったような理屈や理論、方法や法則、物事の真理や有り様を諦観することにも、通じるかもしれません。

 「感」は、私達生きとし生ける者達がふと「思い感じる瞬間」、「応」とは、仏や御先祖様、また自然の摂理の語らい等が、私達の思いに「通じ応じた瞬間」、その瞬間同士が、ふとした縁によって交わり道となする道理、人間のはからいを超えながらも、実際に感じ「気付いた」り、今までの自身では納得出来なかった内容やこだわりが、ふと「ほぐれ解けた」瞬間を表現した仏教語です。

 人と人との関わり合いは、生前中だけのものとは限りません。親子親族、友人知己、特に信頼を重ね親しみを感じていた人との別れは、それまで当然であった存在への喪失感、前向きであった日常の虚脱感として現れます。

 しかし同時に、それまで思いもしなかった感情や有り難さ、一つ一つの出来事や思い出の有り様が、今までとは違った見方として、気付かされることも少なくありません。あの時のあの行動や言い回し、表情には、別な意味があったかもしれない等、自らの心中に新たな一面や、より深遠な部分に至る契機に繋がることもあります。

 ご逝去なされて、姿形としては見聞出来なくなったけれども、今まで以上に故人が身近に、また貴重で尊く感じられる、等というお話しもよく聞かれます。

 人が自らの有り様を認得して、責任有る言動や生き方をするためには、常に自らの立ち位置(立場)を認識する必要があります。それを一般的には筋道(すじみち)という表現で、日本人は親から子供へと伝えてきました。

 同じ地域で誕生し、近しい環境で育った仲間から、時代は同じくとも国籍も環境も異なる人々との交わりから生じる軋轢や発見、己の智見を広げる機会が、人間社会という幅広い横軸の中に存在します。また、今を生きて様々な出来事を経験しながら、迷い、悩み、苦悩しながらも、楽しみや嬉しい出来事にもふと出会う、その経験こそが、自分の人生でありながらも、自分だけの人生ではない証(あかし)であり、現在の自身と同様にその時代時代に両親や祖父母、多くのご先祖様方が繋ぎ合わせてこられた継承の上に存在している自分という存在であり、命である縦軸の証明でもあります。

 一人一人がまず、自身が多くのご先祖様方の繋がった証明存在である事実を見極め、己を大切な存在と認識し、自身のみが歩める人生の中心に、己を据える覚悟を持たねばなりません。

 そのためには、他から教示してもらった物のみではなく、自ら思考して調べ、あるいは比較検討して、己なりの歴史や文化、経済や国家を含めた事象や人間関係の有り様を、見極め構築して自身の礎とする必要があります。それらを基(もとい)として思慮し、行動を積み重ねた結果の上にこそ、それぞれの自信や誇りや矜持といった、自身のみが歩むべき自身の人生を、前向きで直向きに意義ある生涯として全うする意思が確立されるのです。

本年の新盆施食法要後、瑞光蔵でのお斉席の際に披露された什物