社会の中の【仏教用語】他⑫自内証法門と寶蔵自開

社会の中の【仏教用語】他

 今回で12回目となる仏教的用語の解説ですが、自内証法門(じないしょうのほうもん)については、第4回目の際にも解説いたしました。
 そこでは、仏教の根源が自らの内側を探ること、そして自らを証明することを法門、教えの入口として設けていることを記しました。そして「ないしょ話」の語源としても論じられていることも述べました。
 ここでは、関連して仏教で使用される言葉を追記したいと思います。上記表題にある「寶蔵自開(ほうぞうじかい)」がその文言です。訓読すれば、寶蔵(ほうぞう)自(おのずか)ら開く、となります。
 表現は違いますが、自らでその目的の蔵を探し求めて、自らの手で開くという、根本的内容は同じと考えられます。決して自身を救うのは他人ではなく、自身であることを基準としています。
 勿論様々な先達の教えや示唆、人の人情の機微に触れたことによる影響も大きな要因になる方もおられるでしょうが、その示唆や、歴史等から学び得たものを応じて活かすのは、やはり自分自身でなければなりません。
 現在の世の中は、自身の資質や能力の社会への貢献や還元は計り省みることもせず、声高に己の要望、要求のみを叫び通すことが、民主主義や平等と考え違いしている大人が大勢存在しているようです。
 根本がねじれてしまうと、そこからなる枝葉の全ては、つじつまが合わなくなる事は当然で、自らの病の治療を求めながら、薬は飲みたくない、他人に触れられたくない、この場を移動しないで治して欲しい等と、頼む立場の者がより多くを要求して、社会を混乱させているのが現状の日本国でもあります。
 私たち一人一人が良く見て、良く聞いて、良く調べて、良く思考して、偽物に惑わされず本物を選び支持し、互いに成長を促す関係を築き直す場に、直面しているとも言えるでしょう。
嘉永年間の古伊万里
同じく天保~嘉永期の古伊万里
伝平安期、山平椀