講座(5)『正法眼蔵』「現成公案」巻の考察⑪ 13段目

仏の教え

第十三段

本文

 魚の、水を行に、ゆけども水のきはなく、鳥、そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。しかあれども、魚・鳥、いまだむかしよりみず・そらをはなれず。ただ用大のときは使大なり。要小のときは使小なり。かくのごとくして、頭頭に邊際をつくさずといふことなく、處處に蹈翻せずといふことなしといへども、鳥、もしそらをいづれば、たちまちに死す、魚、もし水をいづれば、たちまちに死す。

 以水爲命しりぬべし、以空爲命しりぬべし。以鳥爲命あり、以魚爲命あり、以命爲鳥なるべし、以命爲魚なるべし。このほかさらに進歩あるべし。修證あり、その壽者命者あること、かくのごとし。しかあるを、水をきはめ、そらをきはめてのち、水・そらをゆかんと擬する魚・鳥あらんは、水にもそらにも、みちをうべからず、ところをうべからず。

 このところをうれば、この行李したがひて現成公案す。このみちをうれば、この行李したがひて現成公案なり。このみち、このところ、大にあらず小にあらず、自にあらず佗にあらず、さきよりあるにあらず、いま現ずるにあらざるがゆゑに、かくのごとくあるなり。

 しかあるがごとく、人、もし佛道を修證するに、得一法通一法なり、遇一行修一行なり。これにところあり、みち通達せるによりて、しらるるきはの、しるからざるは、このしることの、佛法の究盡と同生し同參するゆゑに、しかあるなり。

語注

(ゆう)……①受用に同じ。特に施者が僧衆に種々のものを施し、僧衆がこれを受け、費やすことをいう。〈『中論』一七・四〉

    ②楽しむ。(与えられたものを)享受すること。「開法楽用」〈『上宮維摩疏』中二 大 五六巻四四下〉

    ③はたらき。作用。活動。

    ④実行。耽ること。〈『一切流摂守因経』〉

    ⑤必要とする。「不用色因」(色因というものが成立しない、必要でない。)〈『中論』四・四〉

    ⑥学人の素質・力量に応じて示す師家の機用。〈『景徳伝燈録』一三巻 大 五一巻三〇五上〉

    ⑦…を。対格を示す。「もちいる」という意味ではない。

    ⑧以に同じ。具格を示す。「何用」は何ゆえに、の意。「空何用空」〈『維摩経』問疾品〉

    ⑨(創造の)動機。〈『金七十論』六六頌 大 五四巻一二六一中〉

    ⑩(一)「何用」は何以・何為(いかに、なぜ)。

     (二)以(…するのに役だつ)。

     (三)由(…から)。奪格を表わす。

     (四)「足用」は、…することができる、の意。

     (五)以(そのことによって)。

     (六)「用上」は以上(すぐれている)。

     (七)「用下」は以下(劣っている)。

     (八)「用是」は是以(その理由のために)

   解釈例:はたらき。〈『香月』九九七〉信用と云ふてたのみにすること。〈『円乗』二九二七〉

用大(ゆうだい)…衆生の心のはたらきが、一切の世間と出世間とにおける善の原因と結果(因果)とを生ぜしめることをさしていう。用は功能作用で、その結果が偉大であるから用大という。→三大〈『起信論』大 三二巻五七五下〉

・使……①(一)使役動詞を形成するのに用いる。…させる、の意。

     (二)もしも。

    ②煩悩の異名。煩悩は人を追いたてるものでああるから、かく称する。→結使〈『雑阿含経』二一巻 大 二巻一四六下〉他

    ③役人。〈『四教儀註』中本四〉

    解釈例:もし。〈『香月』五四一〉かくさせると云ふ意の字也。〈『円乗』一一七二〉

・要……①出要。出離の要道。解脱。〈『普法義経』〉

    ②要致。要道。〈『陰持入経』〉

    ③生活規定。「比丘要」(修行僧の実践すべき戒律の体系。)〈『中阿含経』三六巻 大 一巻六五七上〉

    ④約束。〈『那先経』A上 大 三二巻六九四下〉

    ⑤かならず。〈『上宮維摩疏』上 大 五六巻二七下〉

    解釈例:しめくくり肝要なり。〈『円乗』二二五七〉かならず、心にちぎりあふこと。〈『円乗』一二八七〉要はかなめと云ふ字也。全体人の腰を要と云ふ。こしと云ふ字は腰とかけども、全体要の字がこしと云ふ字なり。要はくくりしめと云ふこと。人の腰がくくりしめ処故に帯す。〈『円乗』一四五二〉

頭頭(ずず)(これ)(どう)

   …宇宙のあらゆる現象は、それぞれが互いに異なる特殊なすがたをとって存在しているが、究極の立場からありのままに見るならば、それらはそのまま絶対の真如

    (道)そのもののすがたを示している、ということ。〈『碧巌録』二則〉

・処処…あちこち。〈『大智度論』四巻 大 二五巻八八上〉

・蹈……①ふむ。臼でつくように、まんべんなくとんとんと足ぶみする。

    ②ふむ。足でふむ。また、ふんでいく。また、ふみ行う。

    [学研 漢字源 改定第五版]

・飜……翻に同じ。「飜此」(これに矛盾するもの。)〈『正理門論』〉

・翻……①反対の。反対に。「翻此」〈『金七十論』大 五四巻一二五〇下〉

    ②矛盾する。「翻此」(これと矛盾するもの。)〈『正理門論』〉

    ③…に反する。…に異なる。

    ④(外道を仏道のほうへ)転廻させる。回心させる。〈『五教章』上 三ノ四七ウ〉

    ⑤逆に。逆説的に。〈『五教章』中 一ノ四三オ〉他[「かえっ

て」とよむ場合がある。]

    ⑥ひっくり返す。〈『五教章』下 三ノ一九オ〉

    ⑦一転して。〈『碧巌録』四八則〉「翻合善」(あらためて善ならしめる。)〈『百五十讃』一二三頌〉

・進歩…

・寿者…①霊魂。

    ②個体。(個体に対する執着。)〈『金剛経』大 八巻七五二下〉

    ③一切の事がら、地・水・火・風・草木などにみな寿命があり、たとえば草木を切っても再び芽をふくように、草木にもいのちがあると説く説。〈『大日経』住心品 大 一八巻二中〉

・命者…命あるもの。霊魂。〈『有部律破僧事』七巻 大 二四巻一三六上〉他

・現成…①完全に実現すること。曹洞宗で特にいう。次項(現成公案)参照。〈『正法眼蔵』現成公案 大 八二巻二四下〉

    ②現行と成就。はたらきの現われることと身に具えていること。→成現 →現行

・現成公案…

現に成就せる公案の意。公案は通例、公府の案牘、すなはち模範・先例の意味に解され、これによって、さとりを得る古則・本則の意味に用いられる。しかし、これは唐末五代を経て、宋代に至って形成された公案禅によって固定化されたもので、公案本来の意味ではない。公案ということばは、禅宗では古く、現成公案として用いられた。たとえば、黄檗希運の法嗣睦州が、一僧の来るのを見て、「見成公案、放汝三十棒」(『景徳伝燈録』一二、睦州章)と述べている。現成(見成)とはあらゆる現象のありのままのすがたをいう。ゆえに、現象界のありのままのすがたを、求道の課題とすることをいう。(道元が公案を現成との関係において述べ、現成公案あるいは公案現成として用いていることは、禅宗における公案の原始的意味にしたがったものである。)〈『碧巌録』五一則〉〈『正法眼蔵』現成公案 大 八二巻二三中〉

・得一法通一法

   …仏道修行では、一つの法を得ることは、法全体に通達することである。〈『正法眼蔵』

    現成公案 大 八二巻二四下〉

・遇一行修一行

   …一つの行に遭遇することは、唯一絶対の行を修行することである。〈『正法眼蔵』現

    成公案 大 八二巻二四下〉

・通達…①近づく。達する。ゆきわたり、つらぬく意。「通達親近」(近づいて見るに足る。)

    〈『雑阿含経』三五巻 大 二巻二五四下〉

    ②通りわたる。尽くす。〈『無量寿経』大 一二巻二六九中〉

    ③感官が鋭く感覚すること。〈『正法華』一巻 大 九巻六八中〉

    ④智慧の完成の極致。〈『法華経』一巻 大 九巻五上〉

    ⑤はっきり理解する。さとる。〈『倶舎論』二四巻一九ウ〉他

    ⑥ゆきわたる。徹底する。〈『正法眼蔵』行仏威儀〉「通達及時」(一切智の状態にしたがっている。菩薩の功徳名号の一つ。)

・究尽…

・同生…ともに生ずること。

・同参…同じ師家のもとにあって、参禅する同学の友。〈『碧巌録』五一則〉

現代語訳

 魚が水を泳いでゆくとき、泳いでも泳いでも水の終わりがなく、鳥が空を飛ぶとき、飛んでも飛んでも空に終わりがない。そうではあるが、魚も鳥も、昔から(魚が)水から離れたことはなく、(鳥も)空から離れたことがない。ただ、大きく泳ぎ、大きく飛ぶ必要がある時は(海や空を)大きく使うのである。小さく泳ぎ、小さく飛ぶときは、(水や空を)小さく使うのである。

 このようにして、頭々(ひとつひとつ)に自己の辺際(かぎり)をつくしていないというとはなく、その(ところ)、その処に踏飜(ぜんりょく)をつくしていないということはないのであるが、(だからといって)鳥がもし空からとび出せば即座に死ぬし、魚が水から出れば直ちに死ぬ。(魚にとって)水は命だったことがわかるはずであり、(鳥にとって)空が命であったことがわかるはずである。(しかし、鳥は鳥であればこそ鳥だったのだから)鳥を命としていたということであり、(魚は)魚を命としていたということである。

 命を鳥としていたとも言えるし、命を魚としていたということであるはずである。このほかさらに、進んで考えることがあるはずである。(何を命として生きるかに、それぞれ)修行があり、その実証があり、そこに寿命があるということは、このようなものである。そういうことであるのに、水の全体を知りつくし、空の全体を知りつくして後、水を泳ごう、空を飛ぼうと思うような鳥や魚があるとしたら、彼らは、水にも空にも、泳ぐみち、飛ぶみちをを得ることはできるはずがなく、泳ぐところ、ところを得ることはできないはずである。

 今この生きているところが自己の真実であるということになれば、この行李(日常の生活)が次々と真実の実現となる。この生きている真実のみちが自分のものになれば、この行李が次々と真実の実現となる。この(真実で生きる)みち、この(真実で生きる)ところは、大小の問題ではなく、自他の問題でもなく、前からあるのでもなく、今、急に出現したものでもないから、かくのごとく(真実そのもので)あるのである。そうであるように、人(誰でもいい、人)がもし、仏道を修行すると、同時に仏が実証されるので、一法を得れば一法に通じるのであり、一行に(であ)った時は、一行を修行しているのである。

 この修行はいつでもその修行するところがあり、そのみちは(どこでも)通達しているので、修行して知られる範囲が修行者自身にはっきりしないのは、この知ることが仏法の究尽(究めつくしたところ)と同時に生きているのであり、同じ修行をしているためにそのようにあるのである。

本文の出典元

・頭々:頭頭物物成現。(『圜悟録』四)

・踏飜:*『清本』左注、フミカヘス。

    *翡翠踏飜荷葉雨、鷺鷥衝破竹林煙。(『宏智広録』五)

・以水以命

   :龍魚未だ知らず水為命。(『宏智広録』二、頌古八十一)

・寿者命者

   :寿命。

    命根成就の故に、名づけて寿者命者と為す。(『大智度論』三十五)

自主的解釈

 ここでは、修行すべき場所の定義、捉え方を示される。前段からもその予備的傾向はあったが、いよいよこの段にて具体性を以て説かれることとなる。もっとも、『正法眼蔵』の根底に流れる着眼点は、常に修と証、自己と萬法との関係性や現れ方、また見方であるから、この修行すべき場所と言っても、つまりは萬法のことに帰着するのであろう。

 さて、「着眼大局、着手小局」なる言葉、大局を見据えながら、足下の一歩一歩を着実に積み重ねることであるが、道元禅師が前段から述べてこられた萬法に対する心構えと、修行に対する歩み方を思わせる言葉に似ているようでもある。学人はまず拝読し、己の領分で理解が契うならば、まずはそのままに訳するを、西有禅師も勧めている。

 魚が水の中を泳ぎ、鳥は空中を飛び回るが、共にその世界に際限はなく、おのおの水の世界、空の世界で完結している。一法究盡である。しかし一法際断した世界の中にまた、身近な範囲で生活するもの、居宅をもたずして廣く世界を横断するもの、様々な境涯がある。

 同じ水、同じ空に在っても互いの生活や境涯を知らず、廣く世界を求めても、その一世界でさえ究めつくせていないのだから、わざわざ他の世界を求めるわけもない。前十二段で述べられたように、「法いまだ參飽せざるには、法すでにたれりとおぼゆ。法もし身心に充足すれば、ひとかたは、たらずとおぼゆるなり。」であるから、その世界を忌避し異界を求むるは常に參飽せざる者となる。

 このように思慮の足らぬ考え違いに至ると、今而世界をも參飽せずして、異界に趣いては三大も働かず、どちらも極まらずして、ただ死の領分に堕するのみとなる。それぞれに、それぞれの領分があり、体・相・用の三大を具え用いた境涯がある。その三大が働く環境を離れて、三大が活かせぬ環境に移るとすれば、それは自らが寿命を放棄する死と同義であろう。

 魚も鳥も互いは異世界に在りながら、その中でまた、箇々の領分の萬法を有用して、不平不満も差し障りもなく、適切なるを勤めている。

 更に覚知領分を広げれば、この空と水も萬法の一境涯であり、空のものと水のものとが、接する境涯や時節も存在している。このような深慮に基き修行を重ねるならば、而今世界に萬法現れ、修行と道理の親しきに至れば、修行しながらの萬法現成となる。

 この時にこそ、大小の用なく、自他の別なく、前後際断上の魚が水を辞せず、鳥の空を辞せざるにして大小を活用する「このほかさらに進歩あるべし。修證あり、その壽者命者あること、かくのごとし。」となるのである。このように学人が道を求める際には、一の道に遇うたならば一道の修行を徹底し、一の法に通じ会したならば、徹底に会得する志で行じるのである。

 さて、ここまで親切に説いたとしても更に、用心のところがあるという。それが「みち通達せるによりて、しらるるきはの、しるからざるは、このしることの、佛法の究盡と同生し同參するゆゑに、しかあるなり。」である。

 『啓迪』もここのところには用心し、『私記』の解釈まで引いて、いろいろな説のあることを示している。道元禅師の『しかあれども』の語の後に示される一転語の如き様であり、この時には言語道断、一法究盡たる境涯から述べられるので、そもそも正解はあって、なきが如しなのであろう。そのような時には、尚更に学人の領分による当然の、真実からはずれない解釈を心掛けるが良いと思われる。

 「しらるるきはの、しるからざる」を、まずは前後の文脈より、「知らるる際の、知るからざる」として、解釈を試みる。際(きわ)を話題の中心に据えるならば、第九段を再読する必要がある。曰く「人、はじめて法をもとむるとき、はるかに法の邊際を離却せり。法、すでにおのれに正傳するとき、すみやかに本分人なり。」である。

 この際には、學人の心情は別に置き、教えの中心から遥かに外れた際(きわ)、辺際をも更に遠ざけるが如き、誤りやすさを示していたが、今回は対岸からでなくして、角度を変えた見識を披露されている。

 すなわち修証の道が通達している學人の心情見識の在り方も、その領分によって異なり、異なることそのものが誤りではない道理を示すのである。道に通達しているのだから証上の人である。あくまで証上の人であるが、必ずしも己の行じている法界を、辺際まで認識し切っているとは限らないというのである。

 さらに言及して、この學人の辺際を知らざる意が、自己と法界の分別を跳出した一法究盡、一法際断にして融通無礙なる境涯によるものならば、歴代の祖師方の行じ究めてこられた境涯と同じく生活し、仏前に同じく参ずることだからである、としている。

 道元禅師は、ここで修証を明確に示すべく、見識や理解に比して行の重きところを、はっきりと説かれるのである。『啓迪』も「御文の通り順当に見ても意は通ずる。」と言われるが、その解釈はどうも際(きわ)よりむしろ、知る知らぬに重きを置きすぎた解釈に見える。

 これは西有禅師の領分なるゆえ、ここでこの方面を示しておこう、という程の親切なる自在解釈でもあろうが、學人に「入処」を設ける解釈とするならば、やはり第九段で学んだ際(きわ)に掛けるのが順当とも思われる。