講座(2) 葬儀式の内容 ④「お経の内容2」

仏の教え

 1、戒律(かいりつ)という言葉は戒と律、二種の規約からなる文字であり、律とは法律にも使われるように、各種団結、団体、国家内にて処罰規定のある約束事のことをいい、対して戒とは、破ったからといって処罰があるわけではないけれども、自らが決した約束事として、常に目指し歩むべき目標のことを申します。
 お釈迦様の説かれた戒めを、少しずつでも踏み行ってゆくことが仏道の基本です。千変万化する独りよがりな思慮のみを頼みとすることは、いつ落ちるとも知れない断崖の小道を辛うじて歩んでいるようなものです。自らが決した仏様やご先祖様との約束事、戒(いましめ)を持参し、迷時の頼りとするならば、歩み続けることそのものが修行となり、おのずから智慧の眼が目覚めてくるのです。
 であるから、この戒めを自覚しながら生活してゆくことが、己の無明より生じた勝手気ままな思慮のみならず、世間に流布された流言、妄言等に惑わされない生き方となるのだと説かれるのです。

 2、人の感覚器官を仏教では、眼(げん)・耳(にっ)・鼻(ぴ)・舌(ぜっ)・身(しん)・意(に)の六根(ろっこん)であらわし、特に意すなわち心は、他の五根(ごこん)を統括しながらも意根(いこん)独自の感性を併せ持つ器官でもあり、俗に第六感とも呼ばれております。ちなみに山々を巡り修行する修験道の方々がお唱えになる「六根清浄」(ろっこんしょうじょう)の六根でもあります。
 普段から、これら意根を中心とした六根を整えることを知らず、我執我見の赴くままにするならば、どんな正しい情報や美しい景色も誤って理解し、自身を見失うのみならず、他をもまた誤見解に巻き込んでしまうものです。人の心は長く自由気ままにしておくと、良心が鈍りゆがみやすくなるものです。
 ですから、心を含めた六根を急ぎ整え、迷い無く物事に打ち込むことができるよう、智慧の眼が開くべく精進をするのだと説かれます。
                 
境内のシュウカイドウ。
境内のヤマブキ。