講座(4)『修証義』の教え⑰(第2章 懺悔滅罪)

仏の教え

 第二章 懺悔滅罪(さんげめつざい)

 〇仏祖憐みの余り広大の慈門を開き置けり、是れ一切衆生(しゅじょう)を証入(しょうにゅう)せしめんが為めなり、人天(にんてん)誰か入らざらん、彼の三時の悪業報必ず感ずべしと雖も、懺悔するが如きは重きを転じて軽受せしむ、又滅罪清浄ならしむるなり。

【本文解説】
 仏教読みでは古来、[懺悔]を「さんげ」と呼び習わしております。
 仏様の説かれた智慧と慈悲の教えには際限がなく、常に誰にでも等しく開かれております。
 これは衆生、すなわち生きとし生けるもの皆共々に、仏の教えを理解してもらい、それぞれが本来の自信と誇りをもって、己の生き方に目覚めてもらいたいという、仏の慈しみの心から発せられたものです。
 他人の心を傷つけ、またないがしろにして、欲望の赴くままに悪事を重ねれば、必定(ひつじょう)、己に対してもその行為の報いが訪れるのが道理です。
 しかし同時に、その過ちに気づき悔い改め、仏の教えに従って心の底から実直に生きることが出来たならば、その罪に対する自信の心のみならず、傷つけてしまった人々の心情をも変化させることもあるのです。
 何故に、そのような道理に導く尊い教えを粗末にすることが出来ましょう。
 人は己の都合や理解を範囲の基準として、主に損得で物事を判断しがちですが、この世には、己の都合とは関係なく、損得を離れてでも、しっかりと学び、守り、伝え、敬うべきものや教えがあるはずです。
 私たちが現に居している日本国の、伝統や文化、信仰等を己のみの都合に引き寄せて、むやみに軽んずるようなことがあってはならないでしょう。  次号につづく
梆(ほう)  主に禅宗寺院にて用いられている鳴らしものの一つである梆は、木魚の原型ともいわれ、本来禅宗寺院の雲堂(坐禅堂)にて用いられる仏具です。顔の部分のみが龍に化身している姿は、いわゆる登竜門(とうりゅうもん)のいわれとされており、魚が厳しい修行(滝登り)の結果、その関門を抜け出でれば龍となって昇天するように、人もまたそれぞれの修行を歴て、仏の一員となるべき心構えを示したものと、されております。