講座(4)『修証義』の教え⑯

仏の教え

 前号からのつづき
 【本文解説】
 仏の教えを敬い、理解実践しようとする者は、そのはじめより、この因果の道理を学び、正しい理解のもと、結果のみに左右されることなく、たとえ僅かでも仏教にかなった生活を求め、勤めていかなければならないのです。
 人は正しい判断力があればこそ、誤ったものを見極めることが出来るのです。正誤、聖邪を見極められる智慧の眼を早急に養わなければなりません。
 でなければお互い、己に都合の良い解釈のみで物事を判断し、自らの利益に固執し、他の利益を奪い合うことに奔走して、あるいは傷つけ、あるいは妬み、憎しみ、永遠に心の安らぎを見出すことのない、長い苦しみに埋没することになるのです。
 以上、ここまでが『修証義』全五章の中の第一章、「総序」(そうじょ)の解説となります。
 突然内容が途切れた印象を憶えるのは、『修証義』全体の構成そのものが、前章を受けて、または関連づけされたうえで、述べられる形式となっているためであり、第一章である「総序」は特に、その名の示す通り、『修証義』の序章としての役割とともに、その全体の要点を簡潔に、しかも私たちの心に印象深く刻まれ、それぞれの自覚を促すような文言を、多く含んでいるためでもありましょう。
                
正安寺の法堂(はっとう)は西序(せいじょ)、室中(しっちゅう)に安置されている経蔵(きょうぞう)は、輪蔵(りんぞう)とも呼ばれ、文字通り仏の教えに関する経、規則を示した律、経をさらに注釈した論の三蔵(さんぞう)を含めた全ての仏教書籍とされる大蔵経(だいぞうきょう)を納めたもので古来、この輪蔵を一回りさせれば、仏の教えを全て読破した功徳を授かれるとして、信仰対象として存在した時代もあるものです。