講座(1) お釈迦様と仏教 ⑨「四法印」(しほういん)

仏の教え

 さて、お釈迦様はこれらの教えを最初のお弟子様方に説かれ、現実世界を偏りの無い見方で認識するよう求めました。そして四諦(したい)の理(ことわり)について、より深く理解できるよう重ねて、自らが観た世界観として四諦に合わせて四つの偈(げ)を示されました。
 これを「四法印」(しほういん)と申します。印とはしるし、また特質徳相の意を持ち、これら四つの見識、内容を含んでいることが仏教である根本条件であり、その意味からこの教えは法の印、しるしとなり、仏教の特色ともいえるのです。

「四法印」(しほういん)
1、諸行無常(しょぎょうむじょう)
2、諸法無我(しょほうむが)
3、一切行苦(いっさいぎょうく)
4、涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)

 諸行無常の諸行とは、種々様々な因と縁の集合体として作られている一切のもの、現象という意味で、私達の心持ちも含めて絶えず消滅変化し続け、とどまることがありません。全てのものが有る、無しの二極ではなく生滅生成のなかにあり、その移り変わりの最中にも生老死滅(暗)の面もあれば、生成発展(明)の相すがたもあり、人生が如く明暗、苦楽相半ばする本質を誤解し、明ばかりを追い求め執着するところに苦しみが生じると説かれるのです。ちなみに一切が本来この有無等の二極を離している道理を総じて仏教では「空」(くう)と申しております。「滅」
 諸法無我とは、先に時間的見知から説かれた教えを、空間的存在論から述べられたもので、即ち存在や現象には無我、それ自体に固有として、実態とすべきもの「我」は存在しないことを重ねて説かれるのです。「集」
 一切行苦とは、これらの道理を正しく理解せず、己のみがその理の外にいるかのように錯覚し、常住不変かのようにあらゆる物質に執着して、我執我見をほしいままにするとき、自身を取り巻く世界一切の存在と現象全てが、苦悩の原因または苦悩そのものとなり得るとする道理のことです。「苦」
 涅槃寂静の涅槃(ねはん)とは、梵語であるニルバーナの音写語で、「煩悩の炎を吹き消す」という意味があり、仏教ではしばしばさとりの別称として、また寂静はその相(すがた)として用いられるもので、極端な風雨波風が立っていない心の内を「寂」、智慧の眼によって現象を正しく捉え、構えて乱りに右往左往しない佇まいを「静」と表して、前述した禅の別称「止観」とも通ずる内容を含んでおります。また仏教では我々の苦悩の大本を「無明煩悩」(むみょうぼんのう)と位置づけ、正しい道理に暗く理解しようとしないことを無明、その誤った見方、解釈を起因とする迷いや悩みを総じて煩悩としております。
 「諸行無常」、この世のあらゆる物事は絶えず移り変わり、常住のものはないという道理を理解しまた、「諸法無我」の教えによって我執我見の誤りであるを識るならば、苦を厭(いと)い楽のみを願い執着するは、更なる渇望と満たさることのない苦しみしか生まないと理解して、これらの根本である無明を断って「一切行苦」、道理に適った生活や行いによってのみ、皆それぞれが心を持ち、命を行ずる尊き存在であるを知り、安心立命(あんじんりつめい)の門を開くことが出来るとするのです。「道」 

 
正安寺境内に咲く花々。