講座(3)『摩訶般若波羅密多心経』の教え⑦

仏の教え

 〇無色声香味触法。無眼界乃至無意識界。無無明亦無無明尽。(色声香味触法も無く。眼界も無く乃至、意識界も無きなり。無明も無く、また無明の尽きることも無し。)
 【用語解説】
  色声香味触法 =六境(認識対象)
  無明(むみょう)=正しい道理に暗い=煩悩
  六根   六境   六識
    十二処(じゅうにしょ)
       十八界(じゅうはっかい)
 
 【本文解説】
 前述した通り、仏教で説かれる個人の存在を構成たらしめ、また、対象物を認識下に存在たらしめる主体と客体を含めた十八の要素を十八界と称しますが、「無色声香味触法。無眼界乃至無意識界。」では、先に五蘊、存在対象を想定して執着すべきではないことを、示してきたので、更に念を押すべく、ここでは我々各々、すなわち識覚から捉えられた世界観であっても、「一切皆空」であるから、己が見て感じた事象が全てであると、ことさらにこだわり、執着することを戒めているのです。
 ちなみに「唯物論」(ゆいぶつろん)、「唯識論」(ゆいしきろん)なる言葉があります。一般的解釈では、世の中を物質のみで構成されると説くを「唯物論」、精神識別作用によって様々な物質たらしめていると説くを「唯識論」と見るようですが、仏の教示では上記の通り、主体と客体、依拠する者と依拠さるる物、一方が有るときには一方も成り立ち、一方無きときにはまた他方も無しと述べられます。主体も空であり、客体も空である、すなわち「一切皆空」なればこそ、そのように説かれるのです。仏教徒であれば「唯仏」(ゆいぶつ)にて身心を修め、己が時代に即して励み勤めることが肝要でありましょう。

 「無明」とは、正しい道理に暗く、理解しようとしないことを指し、転じて私達の心を乱す煩悩や妄想のことを意味します。ですから「無無明亦無無明尽。」とは、私達の心を乱している様々な迷いや苦しみも、それ自体に実体があるのではなく、何時かは形を変えてゆくものであり、むやみに執着すべきものではないと、説きつつ、だからといって正しく仏の教えを理解すれば、無明煩悩が跡形も無く消えて無くなる訳でもないことを示しているのです。
 「一切皆空」の立場で説くならば、確かにそうなるでしょう。空とは生じることもあれば、滅することもある、ということです。私達の心の迷いも生じては滅し、滅しては生ずるを繰り返しているものなのです。
 仏の教えとは、理解することによって心が無になったり、世界が変化するものでは決してありません。仏教は世間のありようを正しく理解し、対処できる心構えを養うこと、その方法を示すものです。
 ですから仏の教えを理解してもなお、迷いや苦しみが永久に無くなることはありません。ただ仏はそれらに対する心構えが出来ているので、無明煩悩が生じても、ことさらにあわてたり、執着を重ねて惑わされたりする事がないのです。