講座(3)『摩訶般若波羅密多心経』の教え⑧

仏の教え

 〇乃至無老死。亦無老死尽。無苦集滅道。無智亦無得。(乃至、老死も無く。また老死の尽きることも無し。苦集滅道も無く。智も無く、また得ることも無し。)
 【用語解説】
  十二因縁(じゅうにいんねん)
  ①無明(むみょう)
  ②行(ぎょう)
  ③識(しき)
  ④名色(みょうしき)
  ⑤六処(ろくしょ)
  ⑥触(そく)
  ⑦受(じゅ)
  ⑧愛(あい)
  ⑨取(しゅ)
  ⑩有(う)
  ⑪生(しょう)
  ⑫老死(ろうし)
  
 【本文解説】
 この項においては、まずはじめに「十二因縁」について示しておきましょう。十二因縁とは仏教において、人間の心の迷いや苦しみを観察追求し、その起因と成立過程を十二段階の系列で説かれたものです。
 それは、①正しい道理に暗く理解することが無いために②誤った生活習慣と、③誤った自意識と、④色形や名前をもつ存在や現象の在り方を、⑤その過ちのままに認識してしまう感覚器官と⑥それぞれの認識と対象が触した世界を⑦感受した時、そこに生ずる⑧渇愛欲愛から放たれた⑨執着心によっていよいよ、⑩眼前の世界はそのままにて有る、⑪と疑いも無く理解したままの生活から、⑫四苦八苦の迷いや苦しみの連鎖が生起する、と述べられます。
 前回までは、煩悩の元となる「無明」について「一切皆空」からの観点から、実体として存在している物ではなく、いつかは姿形を変えてゆく空なるものであり、ことさらに執着すべきではないこと、だけれども、仏の教えを理解し行えば、心を惑わす無明が跡形も無く消え去るわけでもなく、あくまで対処する心構えを示し養うのが仏の教えであることが、説かれてきました。
 更にここからは、次第に仏の教えそのものへの執着も払っていく内容となります。
 「乃至無老死。亦無老死尽」と述べて、「老死」すなわち私達の現実の四苦八苦の苦しみについても同様であると述べられます。この「無明」と「老死」の関係を記すために、十二因縁の解説をさせていただきました。仏教で説かれる十二因縁の初めを「無明」とし、そこから様々な起因を歴て「老死」、私達の現実問題へと集約されます。そのどちらもが、「一切皆空」の一面とするのですから、他の十項目についても同様であると示しているのです。ちなみに十二因縁の解釈には、④名色を六境、⑤六処を六根、⑥触を六識に当てて、十八界として解説される方もおられるようです。
 「無苦集滅道」では、上記仏教の中でも初期にあたる「十二因縁」の教えについての執着を払うことを説かれましたが、更に教えの中心にもあたる「四諦」また八正道についても極端な保持執着を避けるよう説かれます。
 「無智」とは、先に私達の四苦八苦の迷いや、その根本である無明について実体がないことを示してきましたが、ここに至るといよいよ、「智」すなわち、今まで大切にすべきと説かれてきた仏の説かれる教えや道理にも実体があるわけではないことを示されます。
 ここのところは、仏教を仏教たらしめている教義の中心であり、内容が深くまた、大変貴重なところでもあります。どんなに厳かで有難い教えであっても、人間が説く限り説く人と説かれる教えのみが突出し、世の道理とは別物と認識され区別される方向に、導かれがちでもあります。お釈迦様は「一切皆空」と説かれたときには、自身もその説いた教えもその「一切皆空」の道理の中にあるのだから、同じくとらえて、むやみな執着心を持つべきではないことを説かれ、仏の教えのみに執着して世と隔絶し、突出した考えや行動に陥らないように諭されます。
 「亦無得」では、仏の智慧や教えのみが特別なのではなく、同じく「一切皆空」の道理内にあるのだから、そのさとりの境涯についても得たい、あるいは得られない等と執着して、思い悩むべきではないこと、また自分だけが他と違う特別のものを得た、あるいは得ていないというような法執(ほうしゅう)、教えに対する執着から生じる「空」の解釈を戒めます。
 ここに至って『般若心経』、またお釈迦様は随分と難しいことを私達に求められます。私達が仏の教えを学ぶのは、心の平穏を得て、おさとりの境地を得て生活をしていきたいからではないでしょうか。しかし『般若心経』では、自らを何物かから突出させ、仏の教えや道理を学ぶべきではないことを示します。これは教えの本質を私達に念を押して、再確認を求めているともいえます。
 仏様が私達にもとめているのは、人間らしい行い、言葉、生活そのものであり、特別な突出したものなどではありません。仏教は決して人の欲望や希望を満たすためのものではなく、あくまで人間が人間たるべく、正しい道理にかなった行いや生活をしてゆく、手助けでしかないのです。
 たとえ己の希望が充分に満たされなくとも、その人の行いが清々しく、道理にかなったものであるならば、それこそが仏の教えの理解者であり、実践者ということなのでしょう。
                                               
                                               
正安寺では現在、御開山である海秀玄岱禅師他、歴代の和尚様方が祀られている開山堂と一般的に称される堂宇の補修を行っております。長年のねずみ他鳥獣の被害により、おもに天井裏から側面の壁にかけて損傷が激しく、お寺にて修繕補修を計画致しました。徐々に整備補修される伽藍を掲載してまいりますので、おしらせ欄にて御覧下さい。