講座(3)『摩訶般若波羅密多心経』の教え⑭完

仏の教え

〇即説呪曰。羯諦。羯諦。波羅羯諦。波羅僧羯諦。菩提娑婆訶。般若心経。(即ち呪に説いて曰く、ぎゃあてい、ぎゃあてい、はぁらあぎゃあてい、はらそうぎゃあてい、ぼぉじいそわか、はんにゃしんぎょうと。。)

 【本文解説】 いよいよ『般若心経』の解説も最後となります。本文の解釈としては、はじめの「即説呪曰」こそ漢文ですから、そのまま書き下すことができますが、後の文言は全て梵語の音写語となりますので、漢字そのものに意味を求める必要はありません。
 長い仏教の歴史の中では、お釈迦様ご在世の時代と同じ、もしくは近い言語でお唱えすれば、より功徳や精進が進むと考えられた時代もあり、それらの文言を特に「陀羅尼」(だらに)、あるいは「真言」(しんごん)と称しました。
 まさに「羯諦羯諦」以降は陀羅尼真言の部分であり、意味内容は理解せずとも、お唱えするならば、その念仏念心が廻向し、何時か仏の教えや法雨となって、自らをも潤してくれるものであると考えられて来たのです。
 しかし敢えて解釈するならば、羯諦は渡る、進む、行く、波羅には一緒、一体、共々、共通等の意があり、訶は摩訶と同様に、深遠で尊い存在に付す象徴でもありますから、
 「参りましょう、進みましょう、私達皆が手を携えて、仏の教えを共に求め、勧め、示し導く仲間である僧迦として、仏の教えとその真実、また現在この娑婆国土においても、教えの実践に精進している仏道修行者の仲間達の辨道の成就完成を祈って、この深遠甚大なる教えを常に大切にし携えて往きます」、という内容とも考えることができるでしょう。
 ここまで『般若心経』の解説をしてまいりましたが、その内容にも説かれているように、仏教は、ありのままのものを、ありのままに見て、感じて、道理に適った生活、生き方を勧めるための教えです。しかし私達はお互いの立場等を先とし、損得勘定等を物事の判断基準の中心に据えるため、ありのままに見ることが出来なくなってしまうのです。
 己の能力や仕事量、力量に見合った成果や報酬を希望することは当然の権利です。問題は己の欲心を逞しくして、強引に他の成果まで欲したり、奪うようなことがあってはなりません。
 欲心を修めるのが報恩感謝の心です。仏の教えは、信仰者の欲望を満たし、自己満足をさせるものでは決してありません。自らの現に存在している本当の立場に対する報恩感謝の心も拠り所として、自身をも冷静に見つめて、その力量以上に欲し、振り回されるほどに欲心を逞しくすることなく、自分が自分自身として己の人生を歩むために、正しい信仰による正しい信念を培うための教えが、仏教でなければならないでしょう。
 次回からは、曹洞宗独自のお経とも言われている『修証義』を解説してみたいと思います。
 
①正安寺十六世、大梅法選禅師書 「莫妄想」(まくもうぞう)
②正安寺三十五世、耕雲法成大和尚書 「飢来喫飯困成眠」(飢え来たらば喫し、飯困らば眠るべし)
③現大本山永平寺貫主、福山諦法禅師猊下染筆 「平常心是道」(へいじょうしんぜどう)