講座(4)『修証義』の教え㉕

仏の教え

第三章「受戒入位」のつづき

〇若し薄福少徳(はくふくしょうとく)の衆生(しゅじょう)は三宝の名字(みょうじ)猶(な)ほ聞き奉(たてまつ)らざるなり、何に況(いわん)や帰依し奉ることを得んや。徒(いたずら)に山神鬼神等に帰依し或いは外道の制多(せいた)に帰依すること勿(なか)れ、彼は其帰依に因(よ)りて衆苦(しゅく)を解脱すること無し、早く仏法僧の三宝に帰依し奉りて衆苦を解脱するのみに非ず、菩提(ぼだい)を成就すべし。

 【用語解説】
 解脱(げだつ)=妄執(もうしゅう)を含めて、あらゆる世間の束縛を離すること。

 【本文解説】
 人は誰しもが時に、己の思い描く未来に挫折し、行き詰まりを感ずることがあります。
 その時に実際に注意すべき点は、失敗そのものよりも、むしろその事によって起こる、自身が物事を正しく判断すべき、心の視野が萎縮し、狭まってしまうという事実です。
 長い人生の道のりでは、なぜ自分ばかりが正しく評価されず、労苦ばかりが多く、世の中に取り残されているのかと、孤立感をおぼえることも少なくありません。
 しかし仏教徒の本分は、少なくとも仏・法・僧の三宝に出会えた尊さと、喜びを心に抱いて、励み勤めることを忘れないのです。
 さらにその三宝に相まみえ、自ら進んで拠り所とすることができた己自身を誇りとして、むやみに誰が唱えたとも知れない理屈や教えを信奉したり、規制や規則ごとばかりが多く、人の心を縛って他の教えどころか、それぞれの考えまでをも排斥するよう唱える、度量の狭い教えに従うべきではありません。
 そのような道理から外れた教えは、教えのための自己犠牲は勧めても、自己が自己として、人間たるべく生きる道標を説くものではありません。ですから勿論それらは、人間として生きていくうえで生じる苦悩を、解決してはくれないのです。
 であるからこそ愈々(いよいよ)、私達仏教徒は、人間が人間として生きるべき尊さを説かれた仏と、仏が説かれたその教え、その教えを慕い理解しようとする仲間達の三宝をよりどころとして、互いの煩悩から生じる様々な悩みや苦しみ、束縛を解決するだけでなく、自らが勤め励んで仏になるべく一歩でも精進をするのです。 つづく
「梆」(ほう)  禅宗寺院を中心に用いられる鳴らし物の一つ。隠元禅師が日本に持ち来たり、禅三宗は黄檗宗(おうばくしゅう)が主となって広まったとされている。現在の木魚の原型ともいわれ、「開梆」(かいぱん)・「魚板」(ぎょはん)・「魚梆」(ぎょほう)・「魚鼓」(ぎょく)また、食事の時刻を知らせる役割から「飯梆」(はんぽう)とも呼称される。
 曹洞宗の修行僧は僧堂(坐禅堂)にて飯宿するので、一般的に「梆」は僧堂内に掲げられているが、正安寺の僧堂は建築後250年の経過による損傷のため現在、表回廊は法堂(はっとう)の入口に仮安置されている。
 欅(けやき)の一木作りで、曹洞宗大本山である永平寺の「梆」と鱗やひれ等の形状を同じくし、大きさは7割の縮尺で作られている。  顔が龍に化身して宝珠(ほうじゅ)を口にしている姿は、魚でさえも仏の教え(宝珠)を求めて、修行にはげみ(滝登り)、門をくぐれば、龍となって天空に飛翔するといわれる「登竜門」(とうりゅうもん)の故事になぞらえ、その意味で「梆」は、未だ修行の途中にある修行僧の心構えを表しているともされている。