【行事】令和8年5月3日(日) 「大般若祈祷法会」

行事

 本年も正安寺の恒規行事(ごうきぎょうじ)でもある、「大般若祈祷法会(だいはんにゃきとうほうえ)」が、組寺のご住職様方の随喜(ずいき)により、お勤めされました。
 コロナウィルス蔓延の不穏な情勢以降、日本国内での人々の交流や様々な行事と同じく、寺院での恒例であった行事であっても参加される方々のお顔が、毎年確認できる範囲に留まって来た印象です。
 常日頃から正安寺、また正安寺住職としての姿勢や思慮するところとして、「催し物は、参加者に楽しみや気づき、得るべきものがあることが最低条件であり、どんなに有意義な内容であっても、自身の重要な案件や時間、家族や立場を犠牲にしてまでするべきものばない」と示している通り、ご先祖様方のご供養や回忌法要であったとしても、施主家の方々の健康や治療、代え難き立場や人との時間を蔑ろにするならば、本末転倒になりかねません。
 ご先祖様方は、ご供養をされる近親者や後孫の通常生活や健康を第一に願っているはずであり、間接的とはいえ、決して家庭の和や生活を乱すようなことはのぞんでいないはずです。
 殊更に「御先祖様」や「ご供養」を強調し、お勤めしなければならないような「恐怖心や不安」を煽るような教えは、仏教とは言い難きものです。仏教は合理的で理性的で当たり前の教えでなければなりません。己や家庭や立場に一定の余裕や時間が可能となったとき、ふと故人や御先祖様方の面影がよぎり偲ばれた際、お勤め出来る範囲のご供養を勤められれば最良と思うべきです。
 そのような思いから正安寺では、殊更にご出席や参加を強いるようなことは申しません。ただし日本国の現況を観ずる時、若い世代の確信を持てない虚ろさが、極端に垣間見えるようになってきたようにも思われます。
 正安寺では、社会において人が人としてより良く人生を全うするための両輪として、御先祖様方のご供養を通じた自身の重みや価値や尊厳の確認だけでなく、古来の「寺子屋(てらごや)」での教育のように、個々の性格や力量、機縁に則した学び方や理解の深度を、大らかに設けられるべき人間教育の場としての役割と、捉え二大眼目として維持運営の中心に据えております。
 人の感覚器官を眼・耳・鼻・舌・身・意(げん・にっ・ぴ・ぜっ・しん・い)の六根(ろっこん)といい、対象となる事象を色・声・香・味・触・法(しき・しょう・こう・み・そく・ほう)の六境(ろっきょう)と申します。観測する側とされる側の両方が揃わなければ、どちらも両立も存在もすることが出来ない、量子力学の世界にも通じることです。
 ですから見るべき対象や、聞こえるべき音声、感じるべき意(こころ)が揺れ動くことは、人の思議するところを超えた最上の不可思議であり、この私達が今有ることを「不思議」、または「有り難し」と言うのでしょう。
 寺院には一般生活とは違った感性や佇まい、歴史に裏打ちされた空気感等が感じられます。若い世代にこそ、日本文化の礎として長く継承してきた、それらの風情に早くから親しみ、感じていただき、自らの学習や検証の基礎に加えていただきたく願うところでもあります。
法要場所の「仏殿」 YouTubeにて法要も閲覧可能です
お持ち帰りいただいた「祈祷札・御守り他」
法要後に拝観披露された什物の1つ