講座(4)『修証義』の教え⑥

仏の教え

 「自業自得」とは、自らの行いを起因とした結果を自らが受け得ることをいいますが、「自業他得」は、自らの行いが他に影響を及ぼすことを、また「他業自得」は、他の謀(はかりごと)等の行いが自らに影響すること、「他業他得」は、他の行いが他または社会全体等に影響を及ぼすことを示したものです。
 前述した如く、人間の一生は「諸因諸果」故にこそ、たとえ己の行いが誠実で実直なものであったとしても、その他の起因によっては、満足な結果を得ることが出来ないことも多々有るのです。
 だからといって、自らの行い自体をないがしろにするならば、たとえ他の起因するところが良縁となれども、その結果は早期に破綻することとなります。結果を望むものは自らの精進は勿論のこと、周囲その他の環境等に対しても、常に鋭敏な感覚を持続し続けることが求められます。
 このこと、即ち自らが望む結果を得ることは、決して幸福であるとは言い切れません。その結果を求めるために費やした技術や労力、無理をした時間等が、己の結果とは別に、自業他得、他業他得としての起因にもなるからです。自らは成功を収めたが家庭は不幸になった、後世に残る作品を制作したが、自身の一生は報われなかった等という話が数多くあることも当然です。
 とかく私たちは他人の家庭と比較しがちですが、他が見れば羨むような家庭であっても、そこに知られざる様々な労苦や悲しみ、何かしらの犠牲が存在しているかもしれません。であるからこそ、仏教においては初めこそ、仮に物事に区別を設けながら教えの理解を深めていく方法が選択されますが、教えの深部に近づくほどに今度は、その区別を払っていきます。仏教では前者を知恵(分別智 ふんべっち)と記して物事を分別比較して理解する意とし、後者を智慧(無分別智 むふんべっち)と記して、己が思慮分別に頼らざるとも、正しく生活することが出来るに至った智慧として、仏教が求むべき境地としています。
 「仏家一大事因縁」とは、ここのところをしっかり理解し、物事を見極めていくことが肝要であり、その理解に通ずべき実践をこそ、仏教が勧めていることをあらわしています。
 ちなみに「一大事」も仏教用語であり、最も大事、大切なという意を持ち、仏教の根幹が、諸因諸果たる因縁の究明と実践にあることを示しているのです。  次号につづく
仏殿の釈迦三尊、お釈迦様と脇侍の二尊像。
ご本尊右側脇侍(わきじ)、二祖摩訶迦葉尊者(にそ、まかかしょうそんじゃ)
ご本尊左側脇侍、三祖阿難陀尊者(さんそ、あなんだそんじゃ)