正安寺の取組みと今後について

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 少子高齢化や経済の停滞、コロナウイルスによる飲食および宿泊業、旅行業等の人の交流さえも制限されるなか、寺院を取り巻く環境も年々難しくなってきております。
 意外に知られておりませんが現在でも、地方を含めた全寺院数の中で、その伽藍を現状の維持保全をしつつ住職の給与まで賄えているのは凡そ半数、統計的にはそれ以下とも謂われております。
 そのため他業種と兼業せざるを得ない住職が増え、そのような寺院住職に長年の修行等させたならば、就職の機会を失する等の配慮もあり、住職資格も裾野が広がった分だけ、資質が低下したという見方もあります。
 さらに今後の10年~20年の間にはそれらを含めた4割の寺院は運営不能となり統廃合、消滅すると専門家には言われております。
 根本原因は明治維新以来、幕藩体制下のような神社仏閣への助成がゼロとなり、寺院の扱いも実質自営業者とみなされます。その金員が富国強兵、いわゆる軍事費の原資となり、さらに国家神道を標榜するかたわら、解釈や理解の齟齬等もあり廃仏毀釈の波を真正面から被ることになった寺院もございます。
 さらに中央集権を進める政策の中で、神社仏閣の必要以外の土地を国に帰属せしめる、いわゆる上地(あげち)という規則が発布されると、正安寺も国道から正安寺に至る正面参道の石階段が、何の理由か突然上地されてしまいました。現在では考えられませんが、恐らくは選定人の思惟が働いたと思われます。この参道につきましても、ほとんどの御檀家様が知りませんが、現在でも市道となっております。これは国が上地したが管理しきれず、平成になって地方自治団体にそのまま名義を移した影響です。
 そして戦後のGHQ主導による農地改革法、いわゆる大地主の解体目的といわれておりますが、神社仏閣までその対象とされました。当正安寺の戦前の境内地面積は3万坪(現在の愛知県、豊川稲荷と同じ)、現在は5千坪、その差2万5000坪が全て農地解放となりました。
 長野県内どころか、全国を見渡しても異常な数字です。現在とは別の意味で当時の正安寺も有名になました。農地解放を受けて一人もお寺に戻す、あるいはその交渉さえしない上、さらに宅地として他人に高値で売り、自身は正安寺を離檀して他へ移るという行為が横行したこともあり、否応なく正安寺と、最も農地解放の受け皿となった松井という地籍は共に名を馳せることとなります。
 これらによる収入減により、戦前は寺前収入8割、檀信徒からの御布施収入2割で賄っていた収支を、戦後はその2割の御布施収入のみで、正安寺を維持管理しながら、住職世帯の生活費を工面することとなりました。
 三十五世耕雲住職の代は、修行僧は減らしましたが、年単位で見るとほとんど生活のスタイルを変えなかったこともあり、それまでの寺院の貯えを切り崩して収支を合わせる運営となりました。
 三十六世盛基住職が正安寺に入山する頃には、収入どころか大本山永平寺、総持寺をはじめ曹洞宗宗務庁にまで、長年に渡り滞った滞納金があり、三十六世が瀬戸の宗福寺で貯蓄した自身の個人預金は、粗方それら借金の返済で尽きました。
 そこから正安寺の運営やシステムを改めるべく、三十六世が礎を築き、現三十七世がそれらを活かしつつ社会情勢にも合致しながら、歴史的厳かさを損なわないよう配慮し、徹底無駄を廃しながらも伽藍や庭園、光熱費や儀式費等、檀信徒の自負心にも関わるところには、集中して予算を振り分ける運営をつづけ、現在にいたっています。
 こんごは、佐久という限定された地域だけで無く、日本全国を対象として不便を感じずに、正安寺の檀信徒として安心できるシステム等を思惟構築してまいります。
 掲載の写真はそれら一部の成果でもあり、ホームページやSNSを通じて月に1万8000人の眼に触れ、8000人から反応をいただいている告報システムです。